2019年03月14日

●この記事は、ネット上にあった有力情報を転載・紹介するものです。

異端グノーシス主義における反宇宙的二元論

    グノーシス主義と聖書との対比 2009年07月16日

1.はじめに

 さて、少し前に、反キリストを告発するビデオを記事にて掲載させていただいた。私自身は、そのビデオの掲載元となっている「目に塗る軟膏」というサイトを、かなり信頼性の高いものとしてとらえているため、そのビデオの情報にもかなりの信頼を置けるのではないかと考えている。サイト管理者はすでに何年も前から、そのような仕事に携わっておられる方であり、しかも、名前も連絡先も明示しておられる。

 だが、私たちは、もたらされる情報の真偽を常に自分自身で(うちにおられる聖霊を通して)吟味することをやめてはならないし、そういう意味で、反キリストを告発する側からもたらされる情報をも、決して鵜呑みにしてはならないと、武州乃鳩さんが警告しておられることはまことに正しい。
 読者には、私の掲載している情報を批判的に読むことをやめないで欲しいと願う。

 しかし、物事を漠然と疑うだけならば誰にでも簡単にできるが、一つの事柄の真偽を最後まできっちり証明しようと思えば、綿密な検証作業と、膨大な証拠の裏づけとが必要となる。そのような作業を根気強く行うことができるクリスチャンが今、求められていることは間違いないだろう。
 一人ひとりにできることは限られているが、こうして、クリスチャンが互いに役割を補い合いながら、キリストの身体を立て上げていく作業に共に加われるなら、それに増して嬉しいことはない。より多くの人たちが検証作業に加わって下さることを願う。

 ところで話題は変わるが、私は初め、キリスト教界のカルト化という問題を現象面から追っていたが、そのうちにやがて、カルト化現象の背景には、異端化した教義の存在があるという結論に至った。議論を進めていくうちに、その考えは事実によって裏付けられた。なぜならば、教会の組織構成に大きな変革をもたらす教会成長論そのものが異端性を持っている事実が明らかになったからである。

 さらに、私は以前から、ある推測をしていた。それは、聖霊派のうちに存在する異端化した教義と、グノーシス主義との間に、どこかで(たとえかすかであったとしても)何かの関連性、または類似点があるのではないか、という推測である。以前にもブログで、グノーシス主義を一度取り上げようとしたことがあったのだが、その時は、理解が不十分であり、その内容を目にした時、正直、とても私の手には負えないと思った。

 だが、今回、聖霊派に関するビデオの分析を行っているうちに、再び、深く考えさせられるところがあった。「反キリストたちは、聖書を曲げて、神と悪魔の位置を入れ替え、正統な教義から逸脱する独自の異端的教義体系を、かなり明確に作り上げているのではないか? そしてそれは決して、新しい構造を持った理論ではなく、たとえばグノーシス主義がそうであったように、古くから存在していた異端と、何らかの類似した構造を持つものではないか?」との疑問が生じたのである。

 聖霊派(もしくはペンテコステ・カリスマ運動)における異端とグノーシス主義の間にはっきりした関連があるという証拠は今のところ何一つとしてない。だが、前ブログにおいて、教会成長論を分析した際、私たちはすでに、カルケドン信条を拒否し、三位一体の正統な解釈を破壊し、聖霊を母なるものとしてとらえ、正統なキリスト論から外れる養子論的キリスト論を教え、牧師を神として崇めることを信徒に求めるような異端化した教義が、体系的に作り上げられ、それがキリスト教界の他教会にも、見習うべき手本として普及されていることを確認した。この教えの中にはすでにグノーシス主義を思い起こさせるものが部分的に含まれている。

 さらに、このような教えが、他の教会との連携や影響とは全く別に、たった一つの教会や、一人の牧師の発想を基にして、単独に生まれたとは全く考えられない。それがもし単独に生まれたものであるならば、他の教会から非難を浴びることなく、あたかも正統な教義であるかのように、他教会から認められることはほとんどあり得ない。
 そこで、教会成長論に関するこのような異端的著書が世に登場するに至った背景には、同様の教義が、他の場所でもすでに信奉されている事実があり、この著書は単にすでに多くの場所で信じられていたことを体系化してまとめたものに過ぎないのではないかという推測が可能となる。何よりも、一つの異端的教義が生まれるに当たって、それに先行する何かもっと深い根源があったのではないかと考えることは、極めて自然である。

 つまり、以前に分析した教会成長論の誤りは、氷山の一角に過ぎない。そのように考えられる理由の一つとして、まず、日本の聖霊派(もしくはペンテコステ・カリスマ運動に影響を受けた教会)が、伝統的に、アメリカ(その他、韓国)などから強い影響を受けて来た事実が挙げられる。特に、プログラム伝道ということにおいては、日本独自のプログラムなど、存在しなかったと言っても過言ではないほどに(日本発のオリジナル・プログラムは、日本列島十字架行進くらいだろうか?)、日本の聖霊派は、各種のプログラムの形成において、諸外国からの影響を強く受けてきたのである。
 従って、教会成長論という路線において、日本の教会に現れた異端化した教義は、日本発のオリジナルではなく、恐らくは、ピーター・ワグナー、チョー=ヨンギなどの世界的に著名な指導者によって、世界的に普及された教会成長論の教義の忠実な副産物として、生まれて来たと見るのが妥当であろう。(ただしこのことはきちんとした手順を踏んで、証明されなければならない。)
 
 従って、教会成長論、プログラム伝道につきものの問題性を考える時、今や日本という一国の枠組みを超えて、まず、世界的に普及された教会成長論の模範的な教義的な型を詳しく検討する作業が今後、不可欠となることは間違いがない。私自身も、可能な限り、それに取り組んでいきたいと思うが、同種の作業に着手する人がいれば、積極的に取り組んでいただきたい思いでいっぱいである。

 さて、今回は、世界に普及された教会成長論の教義を検討する作業は、ひとまず脇に置いて、まずはグノーシス主義の世界観の話に戻りたい。私は先に挙げたビデオを見ているうちに、グノーシス主義の世界観が、聖霊派に現れた異端的な教えの世界観と何かしら一致した部分を含んでいるのではないかという危惧を抱かずにいられなかった。

 だが、これはひょっとすると、私の杞憂、あるいは行き過ぎた予想なのかも知れない。証拠を発見することはできずじまいに終わるかも知れない。だが、仮に不確実な予想のまま終わってしまったとしても、この作業もまた、背教に光を当てるための一つの実験として、お見逃しいただきたいと思う。
 ここから先は、かなりこみいった複雑な話になるため、興味がない方は飛ばしていただいて結構です。
2.現代に甦る異端 グノーシス主義の世界観

①ナグ・ハマディ文書 グノーシス主義文献の再発見

 さて、ここから先は、荒井献氏によるグノーシス主義に関する著作、『トマスによる福音書』(講談社学術文庫、2007年)を参考にしながら、異端グノーシス主義の教義と世界観の概略を読者に紹介したい。

 「トマスによる福音書」とは何なのか?という疑問が真っ先にあがるかも知れない。もちろん、これは今日の聖書には含まれていない。「ピリポの福音書」とか「マグダラのマリアの福音書」、「ヤコブの黙示録」などと同じく、クリスチャンにとってなじみのない名前だろう。これらは、二ー四世紀の古代ローマ帝国に存在していた異端グノーシス派が、聖典としてとらえていた文書の一つであり、後述するように、教会が正統な文書として認めた正典から排除されて、人々の記憶からは長い間、抹殺されていた。

 長い間、これらのグノーシス文献は、異端反駁の文書の中でわずかに確認できるだけであり、その存在すらも本当にあったのかどうか定かでなかったが、比較的、最近になって、考古学的な発見(ナグ・ハマディ文書の発見)によって、これらの文書の存在が世に提示され、その驚くべき内容が明らかにされた。グノーシス文献は、その内容を見れば、いずれも、今日、キリスト教の正統な教義と認められている教えからはあまりにもかけ離れた内容であることは明らかである。

 さて、これらのグノーシス文献の研究者として著名な荒井献氏の著書だが、氏の見解の中には、正統なクリスチャンから見て、疑問に思われる部分もあるかと思う。私個人は、グノーシス主義が異端であることは火を見るより明らかだと考えているので、それが異端として排除されたのは当然の結果であると考えており、その文献を聖典として復権させる意味もないと考えている。

 しかしながら、グノーシス主義の是非について争うことをやめて、氏の著書をグノーシス主義の体系を明らかにした歴史研究として捉えるならば、時代の隙間に隠され、忘れられた教会史を掘り起こす意味でも、荒井氏の著作や、その他のグノーシス研究書からは多くの学ぶところがあると思う。

 さて、今日、正統的な教会で「正典」として認められている聖書は、旧約聖書に収録されている39文書、新約聖書に収録されている27文書のみを指している。他方、正典から除外された諸文書が今日も「外典」という形でかなりの数、存在しており、中には、これらの一部を異端視せずに取り上げている教会が存在することも確かである。
 考古学的に発見されたグノーシス文献もこれらの外典の中に含まれる。荒井氏が紹介するように、今日数えられている合計74の外典のうち、グノーシス主義外典はなんと半数以上の42を占める。そのことだけを見ても、いかに二-四世紀当時、グノーシス主義の教えがローマ帝国内で勢力を誇っていたかが伺えよう。

 正統的教会の反異端論者たちは、あらゆる異端の中でも、とりわけグノーシス派を危険視した。司教エイレナイオス、司祭ヒッポリュトス、司教エピファニオスの記した文書には、彼らがどれほど異端との取り組みで苦労させられたかが記されている。グノーシス派は、異様なまでに「聖典」の数を増やしていただけでなく、教義面から見ても、正統な教会にとって恐るべき脅威となっていたのである。


② 正統と異端 正統な教義と正典の確立

 ところで、「正典」とか、「正統な教会」といった概念は、いつ、どういう根拠で出来上がったのだろうか。それについて、荒井氏がかなり分かり易い説明をされているのでざっと振り返っておこう。

「キリスト教史上『正統』が教会法的に(この『教会法』は、四世紀末テオドシウス帝によってキリスト教がローマ帝国の国教とされた後は、『国法』と部分的に重なる)確立するのは、五世紀に入っていわゆる『カルケドン信条』が採択(四五一年)された時点以後のことである。

 カルケドン信条は、教義の『キリスト論』に関わる教義で、キリストにおける両性(神性と人性)を同時に承認し、その際、両性の区別が『融合によって失われず、各性固有の性質が一つの人格と一つの位格に併存する』ことを認め、他方においてマリアを『神の生母』と告白するものである。

 これ以後、カルケドン信条と共に、すでに採択されていた『ニカイア・コンスタンチノポリス信条』(三八一年。これは、父・子・聖霊を『同質(ホモウーシオス)』と告白する、いわゆる『三位一体論』)が正統の基準とされ、これに反する告白を掲げる教会を『異端』として排除した。

たとえば、キリストの人性を強調し、その神性を危うくすると正統の側から判定されたシリアのネストリウス派、逆に人性を神性に統合して『単性』を主張すると判定されたエジプトのいわゆるコプト教会は、いずれも『異端』として排斥されることになる(ただし、ネストリウス派、コプト教会共にこの判定には意義を唱えている。)

 <…>ただ、ニカイア・コンスタンチノポリス信条とカルケドン信条によって正統的教会が直接『呪詛』の対象としたのは、アリウス派やネストリウス派であって、グノーシス派ではない。グノーシス派を正統的教会が排除するためによって『真理の基準』あるいは『信仰の基準』は、むしろ『使徒信条』であった。

 この信条は、右の二つの信条と共に、『世界教会信条』と呼ばれ、現代に至るまで、カトリック教会、プロテスタント教会などキリスト教主要教派によって広く採用されているものである。もっとも、使徒信条の標準本文が確定されたのは、中世に入ってから(八世紀)のことである。しかし、使徒信条の原型は、その内容にきわめて近い形で、二世紀の後半には成立していた。われわれはこれを『古ローマ信条』(Romanum)と呼ぶ。」(p.88-90)

 つまり、今日言われる「正統な教会」や「正統な教義」の概念が確立したのは、三位一体の正統な教義を確立したニカイア・コンスタンチノポリス信条、キリスト論についての正統な教義を確立したカルケドン信条、そして現在もキリスト教の主要な教派が共通して認めている使徒信条の三つが事実上、成立した五世紀以降のことである。

 「以上のように、キリスト教の『正統』は右の三基本信条(筆者注:ニカイア・コンスタンチノポリス信条+カルケドン信条+使徒信条)を教義(ドグマ)として成り立ち、これに違反する部分を『異端』としたのであるから、『正統』確立以前の時代(一世紀後半―四世紀)におけるキリスト教の歴史に『正統』『異端』の概念を適用するに際しては、当然のことながら慎重でなければならない。<…>

 しかしながら、五世紀以後の『正統』に連なる『正統的』教会の伝統は、遅くとも一世紀末以後の時代に確実に存在した。これをわれわれは、『プロテスタンティズム』の反対概念としての『カトリシズム』と区別をして、『古カトリシズム』(あるいは『初期カトリシズム』)と呼ぶ。そして、この古カトリシズムの果たした重要な役割の中に、右に言及した『ニカイア・コンスタンチノポリス信条』の確立と共に、『古ローマ信条』あるいはこれに近い信仰告白文を『真理の基準』ないしは『信仰の基準』として達成した『正典』の結集がある。」(p.90-91)

 荒井氏の言う「古カトリシズム」とは、教皇を中心とする権力の独占を認める聖職者位階制が出来上がり、女性が聖職から占め出されるよりも前の時代(一世紀末―四世紀末)の教会のことを指しているものと考えられる。その「古カトリシズム」の間に、キリスト教の正典が結集されたのである(氏によると、最終的に新約が27文書に限定されたのは、カトリック側では反対宗教改革の綱領を採択したトリエントの司教会議(1546年)、プロテスタント側ではウェストミンスター信仰告白文の制定(1643年)である。だが、新約正典27文書の大勢はすでに4世紀末、正統の確立とほぼ同時に始まった)。

 「他方、このような正典結集への動きは、遅くとも二世紀後半にははじまっていた。従って、新約正典の内容が現行の二十七文書にほぼ限定されたのは、二―四世紀にかけてであると見てよいであろう。とすれば、これはちょうどグノーシス派がその興隆を誇った時期と重なる。

この時期に、成立途上にあった正統教会は、彼らに固有な教会政治的・神学的立場(『古カトリシズム』)から、それに反すると判定したキリスト教内『分派』を、構成のいわゆる『異端』として排斥し、異端的聖書解釈に反駁を加えると共に、分派のもとに流布していた聖文書を彼らのいわゆる『正典』から排除していった。後世『外典』と呼ばれる諸文書の大半は、この異端的分派の出自である<…>。」(p.92-93)

 荒井氏は、古カトリシズムは、事実上、神学上異端とみなした教義だけでなく、自らの提唱する教会政治のあり方にそぐわない教義にも「異端」のレッテルを貼って排斥して行ったとみなす。だが、このような見方をすることは、私たちが以前に見たように、手束氏が、ネストリウス派が異端として呪詛されたのは、ネストリウスがキュリロスとの政治闘争に敗れた結果であり、不当な判断であったと述べていたのと同じように、グノーシス派が異端として排斥されたのも、主として教会政治の結果であったという理解を生みかねない。

 私は、当時、グノーシス派が異端とみなされたのが、不当な判断であったとはみなしていないし、ネストリウス派や、グノーシス派を現代キリスト教に復帰させるべきだという主張に立つこともできない。ヨーロッパ中世の異端審問などは別として、今日、正統な教会がいずれも認めている一致した教義に属さない一派が、異端とみなされたことには正当性があったと、クリスチャンは考えるべきであると思う。

 グノーシス派の文献の中には、キリスト教とは全く関係ない独自の教えも存在する。それを考慮に入れれば、グノーシスの教えは、キリスト教の教義から分離して後から生まれたものでなく、恐らくは、キリスト教の成立以前に起源をさかのぼるであろうこと(何か別の起源を持つ宗教が、キリスト教が成立した後になって、キリスト教を自らの中に取り込み、キリスト教的グノーシス派に変質させた可能性があること)は、荒井氏も指摘している。だが、問題なのは、キリスト教的グノーシス派が、自らをキリスト教とは別個の宗教であると主張せずに、あくまでキリスト教の一派であると自称していた点である。いや、むしろ正統なキリスト教を超える「まことのキリスト教」であると主張し、既存のキリスト教を止揚することを目的にしてさえいた点なのである。

 荒井氏は述べている、「正統的教会がグノーシス派に直面して最も困惑したのは、グノーシス派が正統的教会をアプリオリに拒否したからではなく、それ――とりわけヴァレンティノス派――が自派を『まことのキリスト教』と主張し、正統的教会を自派の下位に、しかもなお真実の救済にいたる可能性を有する存在として位置づけたからである。」(p.108)


③反宇宙的二元論 グノーシス主義の世界観

 グノーシス派は最古最大の異端である。だが、グノーシス派の文献の中には、同じ体系の中に一つくくりにするが困難なほどに、異なる教えが多数、存在していることを研究者は異口同音に述べている。

「さて、これら異端的分派の最古最大のものがグノーシス派である。ただ、同じ『グノーシス派』といっても、それ自体の中に多数の分派があり、それぞれの立場やそれに基づく神話論にはかなりの相違がある。」(p.93-94)

 それぞれの文書によって、教えの詳細が異なり、互いに矛盾する部分も少なくない。だが、それでも、一応、グノーシス主義の名前の下で、諸々の相違を超えて共通する基本的な教えがまとめられている。まずは荒井氏の文章を紹介しよう。

「それでは、グノーシス主義とは何か。それは、端的にいえば、人間の本来的自己と、宇宙を否定的に超えた究極的存在(至高者)とが、本質的に同一であるという『認識』(ギリシア語の『グノーシス』)を救済とみなす宗教思想のことである。
 従ってこれには、人間の『現存在』――身体→この世→宇宙→宇宙の支配者たち(星辰)→宇宙の形成者(デーミウールゴス)――に対する拒否的な姿勢が前提されている。」(p.103)

 恐らく、この難解な文章を一読して、グノーシス主義の本質が何かを的確に理解できる人は一人もいない気がするので、もう少し易しく解説してくれている文章を探すことにしたい。

 「叡智の光――グノーシス主義」(注意!音楽が鳴ります)における「グノーシス主義概論」から説明を抜粋させていただこう。
 (注: このサイトにおけるキリスト教の教義の解釈は、グノーシス主義のプリズムを通して解釈されているため、多くの点で正統な解釈から逸脱している。だが、少なくとも、グノーシス主義を理解する上ではかなり参考となるサイトであると言えるだろう。)

「一般に、『グノーシス主義 Gnosticism』と呼ばれている思想乃至信仰は、その原義からは、紀元一世紀より、三世紀乃至四世紀頃まで、ヘレニク世界・地中海世界において流布した、独特の世界観と神観・人間観を持つ『教え』です。
 『グノーシス主義』と云う名称は、一つに、この教えを説き、信奉していた複数の様々な派の人々が、自分たちを『知識ある者=グノースティコイ γνωστικοι (gnoostikoi)』と自称していたからですが、この名称が定着したのは、当時、擡頭しつつあった原始キリスト教会が、グノーシス主義運動を、キリスト教にとっての重大な『敵・障碍』であると見做し、『グノーシス主義異端』として、排斥しようとしたためです。(その理由には、キリスト教的グノーシス主義者たちが、自分たちこそ、『キリストの啓示』の真実の意味を知る、『真のキリスト教徒だ』とも称していたことがあります)。<…>

グノーシス主義は、その『思想原理・世界観・人間観』等からすれば、キリスト教の『異端』ではなく、『異教』と云うべきであり、事実、キリスト教とは全く無縁なタイプのものも存在します。また、グノーシス主義一般が、キリスト教の『異端』ではないことは、多くの研究者のあいだで、今日、同意を得ています。とはいえ、この文書では、紀元の数世紀、地中海世界領域にあって繁栄し、原始キリスト教会より、異端とされたグノーシス主義の考えについて、主に説明し論じます。

わたしたちは、このような意味のグノーシス主義を、取りあえず、『ヘレニク・グノーシス主義』と呼びます。それに対し、思想原理よりして、明らかに、キリスト教とは独立していることが明らかな、『グノーシス主義の原型的』形態については、これを(ヘレニク・グノーシス主義も含め)、『普遍グノーシス主義』とも呼びます。普遍グノーシス主義は、ヘレニク・グノーシス主義よりも広義な意味内包を持ち、また、地理的歴史的にも一般性を具備する思想・信仰の概念です。」

 つまり、このサイトでは、グノーシス文献の中で、キリスト教の要素を取り込んでいるキリスト教的グノーシス主義を「ヘレニク・グノーシス主義」と呼び、そして、キリスト教とは無関係の教えを「普遍グノーシス主義」と名付けている。両者はタイプは違うが、基本的には同じ思想で貫かれており、グノーシス主義という一つの教えの中に含むことができる。

「原始キリスト教は、その思想原理や信仰原理が、古典ヘレニク思想(筆者注:古典ギリシア哲学やローマ哲学)とは異質ですが、しかし、宇宙創造者=神=ヤハウェを『善の神』と考え、神の創造になる、この『被造世界』もまた、『本来的に善』であり『光の世界』と考えたことで、古典ヘレニク思想・哲学と、神観・宇宙観において共通しているとも云えます。原始キリスト教の諸派も、宇宙を『秩序宇宙』と考えていたと云うことであり、また『秩序』は『善』であることより、この宇宙・世界は、『善の宇宙』であると見做していました。」

 簡単にまとめよう。キリスト教においては、天地創造の神(ヤーウェ)は、全知全能の唯一絶対の神であり、愛であり、正義であられる、聖なる神である。その神は、創世記第一章を見るならば、被造物を創られ、それを見て良しとされた。また、人を創造されて、祝福された。創造主は悪意からこの世を創られたのではなかった。神の創られたこの宇宙(被造物)は、初めは調和の中にあり、神は善良な意図を持って人間を創られ、全ての被造物は、神に祝福される、甚だ良い出来栄えであり、調和の中に存在していた。

 「しかし、グノーシス主義は、ヘレニク思想の『秩序宇宙』概念を反転させ否定する思想であり、それは、『この世=宇宙』に、秩序よりも寧ろ『混沌』や『暗黒』を見るのであり、この世の『無秩序性・反理性性・非本来性』を主張します。古典ヘレニク哲学も原始キリスト教も、或いはその他のヘレニズム時代の諸宗教(例えば、ミトラ教、ユダヤ教、ゾロアスター教等)も、宇宙の『善なる秩序性』を認めていたのですが、ヘレニク・グノーシス主義は、上述の通り、『宇宙の無秩序性』『混沌と悪の宇宙・暗黒の宇宙』の現前性を主張し、また、そのような世界把握を、信仰・思想の前提としていました。

 (ゾロアスター教は、光と闇の二元論宇宙観を展開しますが、その世界観は、『この宇宙』を舞台にして、『光の秩序勢力』と『闇の混沌勢力』が争っていると云うもので、[最終的には、『光の秩序』が勝利することが前提とされています]、それに対しグノーシス主義の宇宙観は、『この宇宙』は、アルコーンたちの絶対的な支配下にある『悪の宇宙』であって、『光明の世界』は、『叡智=グノーシス』なしでは到達できない、遙かな彼方にあると云う展望で、光と闇の二元論と云う点で似ていても、根本的に異なる世界観なのです)。」

 つまり、キリスト教徒が、創造主である神は正しい神であり、神によって創造されたこの宇宙全体(被造物)それ自体は、神の御言葉と愛を通して生まれた、まことに良い調和的産物であった(もちろん、アダムの堕落以前はという意味であるが)ととらえているのに対し、グノーシス主義は、世界を正反対の観点から、極めて否定的に見るのである。つまり、はっきり言ってしまえば、グノーシス主義によれば、この宇宙全体は、初めからできそこないの失敗作だったのであり、初めから、絶望的に調和の欠ける暗黒世界なのであり、それを創った神(創造主)もやはり、できそこないの神、善ではなく、悪なる存在であったということになる。

「ヘレニク・グノーシス主義の教師たちは、伝統的な『秩序宇宙・秩序の善なる神』を否定し、この世界は『悪の宇宙』であり、この世界を創造した者も『悪の神・不完全なる神』であると見做し、多くの派では、この悪の宇宙の創造者を、プラトーンの『ティマイオス』に描かれている、下級の世界造形者である『デーミウルゴス=造物主』と同一視しました。
プラトーンのこの著作においては、当然、デーミウルゴスの上位に、高次の『真の神』が前提されているのですが、グノーシス主義の教えにおいても、『この闇の宇宙』の上位に『真にして隠された・知られざる光の超世界』があり、また、デーミウルゴスの遙か上位に、『真にして隠された、または忘却された、至高神』が存在すると主張します(この『隠された、知られざる真の至高神』は、認識や理解を超えた存在であり、名を付けることもできないとされますが、幾つかのグノーシス主義のシステムでは、この『知られざる至高神』を、『ビュトス(深淵)』とか『プロパテール(原父・先在の父)』と呼びます)。」

 キリスト教では唯一絶対の神であり、創造主であるヤーウェに当たるものが、グノーシス主義においては、造物主デーミウールゴス(またはヤルダバオト)に置き換えられ、この造物主は、善ではなく、悪なる存在であり、唯一無二の神ではなく、下級の神であったのだとされる。
 そして、不完全かつ悪神であるがゆえに、デーミウールゴスは混乱に満ちた世界しか生み出せなかったのであり、彼の上には、もっと高次な神として、「隠された至高神」があるとする。聖書の世界における善悪の概念(さらに進んで言うならば、神と悪魔の概念)を、グノーシス主義はこうして完全に覆してしまう。

 では、グノーシス主義において、神は一つ以上あるということになるが、デーミウールゴスは「至高神」からどのようにして生み出されたのだろうか。また、人間はどのようにして出来たのか。もう一度、荒井氏の説明に戻ろう。

「――はじめに上界に、至高者(『原父(プロパテール)』『父(パテール』または『霊(プネウマ)』)があった。彼は女性的属性(『思い(エンノイア』『知恵(ソフィア)』または『魂(プシューケー)』と対をなし、彼らの『子』と、いわば『三位一体』を形成していた<…>。

 女性的属性は至高者<…>を離れて、上界から中間界へと脱落し、ここで『諸権威(エクスウーシアイ)』あるいは『支配者たち(アルコンテス)』を産む。彼ら――とりわけその長なるデーミウールゴス――は、至高者の存在を知らずに、『母』を陵辱し、下(地)界と人間を形成する。こうしてデーミウールゴスは『万物の主』たることを誇示し、中間界と下界をその支配下におく。しかし至高者は、女性的属性を通じて人間にその本質(霊)を確保しておく。

デーミウールゴスの支配下にある人間は、自己の本質を知らずに、あるいはそれを忘却し、『無知』の虜となっている。人間は自力でこの本質を認識することができない。そこで至高者は、下界にその『子』を啓示者として遣わし、人間にその本質を啓示する。それによって人間は自己にめざめ、自己を認識して、『子』と共に上界へと帰昇する。中間界と下界(宇宙全体)は買いたいされ、万物は上界の本質(霊)に帰一し、こうして『万物の更新』が成就する。――」(p.103-104)

 かなり分かりづらいと感じられる人がいるかも知れないため、前述のサイトの説明を通して、この世界観をもう一度、咀嚼したい。

「ユダヤ神秘主義思想のカッバラーが説くように、或いは新プラトン主義の哲人プロティーノスの『一者 To Hen』よりの存在者の下降・流出の説にあるのと同様に、グノーシス主義においても、『真の至高神=知られざる神』からの『存在の流出』と云うものを考えます。
この『流出』は、最初、グノーシス主義者たちの立場より云っても、『秩序的』に行われていたのですが、『或る事件』を契機として、グノーシス主義の『真の秩序宇宙』(これを、プレーローマ とか、オグドアス・アイオーン世界などと呼びます)に、無秩序と混沌・暗黒の萌芽が生じ、この萌芽より、『この悪の宇宙』を創造した、アルコーン(ギリシア語で『支配者』の意味)と呼ばれる、(或る意味で無知蒙昧で傲慢な)複数の超霊的存在が生み出されます。彼ら、または彼らの第一人者である『第一のアルコーン』(これが、上に述べた『デーミウルゴス』であり、デーミウルゴスはまた、ヤルダバオートの固有名を持ち、『旧約聖書』の至高神ヤハウェと同一視されます)が存在を始めます。

 こうして、ヤルダバオート或いはアルコーンたちが、自己の『不完全な知識や能力』において、それと意識してか無意識でか、上位の光の高次世界(すなわち、プレーローマ超世界)等を模倣して、『この世界』を創造乃至造形しますが、それは、彼ら低次アイオーンであるアルコーンたちの不完全さ故に、不完全な世界となります。そして、このようにして生み出された『不完全な世界』が、実は、わたしたち人間が生きる『この世界=宇宙』であり、そこには、悪と闇が満ちている云うのが、グノーシス主義の主張です。」

 簡単に言い換えよう。グノーシス主義においては、初め、世界は「真の至高神」によって、調和と秩序によって治められる秩序宇宙(プレーローマ)であったのに、どういうわけか知らないが、何かしらの偶発的事故により、この至高神から存在が一部流出し、できそこないの悪意ある神デーミウールゴスとアルコーンたちが生まれてしまった。そしておごり高ぶったデーミルウールゴス(またはヤルダバオト)は、至高神に対して反抗し、自らを唯一の神だと宣言し、至高神の力を模倣して、悪意に満ちた宇宙を「創造した」ということになる。デーミウールゴスのせいで、この悪意ある闇の宇宙にとらわれている人間は、従って、「知識」(グノーシス)を得ない限り、デーミウールゴスの気まぐれにもてあそばれ、苦悶しながら生きるだけの存在だということである。

 私たちは、時々、「神があるならなぜこの地球にこんな不条理がまかり通るのか?私は神なんて信じない!」とか、「こんな無秩序で悲惨な世界を創られた神が、愛の神だなんて嘘だ!」などの台詞を耳にすることがあるが、グノーシス主義はまさにこのような否定的神観、否定的世界観に立って形成されていると言えよう。グノーシス主義においては、この全宇宙はできそこないの悪意ある神によって創られている以上、そこには混沌と暗闇しかなく、この世を創った神は、全く信じるに値しない神だった、ということになるのである。

 こうしてキリスト教グノーシス主義は、創造主ヤーウェを、たたえられ、あがめられるべき存在ではなく、憎むべき悪神へと引き下げてしまう。唯一絶対の神をデーミウールゴス(ヤルダバオト)と呼んで、悪なる神へと引き下げる、このような教えが、「まことのキリスト教」の装いをして、キリスト教の中に持ち込まれると、どのように恐ろしい事態が持ち上がるか、誰でも想像できよう。異端反駁者が頭を抱えたのは当然である。

「このように、『悪の暗黒宇宙』と『真の本来的光明永遠世界』を対比させ、『この悪の宇宙』を否定する思想を、『グノーシス主義』の『反宇宙的二元論』と称し、これは、或る思想・信仰が、グノーシス主義であるかどうかの一つの判定『規準』です。そして、このような世界全体について云える『反宇宙的二元論』構造が、実は、人間の存在においても、構造として備わっていることが分かります。つまり、『悪の宇宙』に属する闇の『肉』と、『プレーローマ』に属する『光の霊』の二元対立構造がそれです。」

 この世を創った神は悪意ある下級神だったのであり、その神が創った世界もまた絶望的に悪なる産物であった。そしてそれらを超えて、どこかに光であり善なる永遠世界が存在するはずである。人間は救われるためにはそこへ帰らなければならない。それがグノーシス主義の言う反宇宙的二元論である。


④ グノーシス主義における人間の魂の救済とは?

 グノーシス主義においては、キリスト教と同じく、人間は、『霊(プネウマ Pneuma)』 『心魂(プシュケー Psykhee)』 『肉(サルクス Sarks)』の三つから構成されていると考えられている。

「グノーシス主義の教えでは、この裡、『心魂』と『肉』は、デーミウルゴスやアルコーンたちの創造になるもので、この不完全な宇宙と同じ性質を持っており、即ち、不完全で、悪であり、また永遠的でなく、可壊で、地上に腐敗し滅び消滅する定めにあるとされます。

では、『霊(プネウマ)』はどこから起源したのかと云う疑問が起こります。これは、グノーシス主義の諸派によって説が色々とありますが、基本的に共通するのは、『霊(光の霊)』は、プレーローマに起源があり、霊を創造したのは、デーミウルゴスや諸アルコーンではなく、それは、光明に満ちる『プレーローマ永遠界』と、この『悪の宇宙』の中間にある『境界世界』を介在として、プレーローマの『知られざる至高神』が創造したものである、或いは、プレーローマの真実の高次アイオーンたちと同質なものであり、これこそ、『人間の本来的本質』であり、不滅であり永遠世界に属し、『悪よりの解放』の原理を裡に含むものであるとされます。」

 キリスト教においては、人間の霊そのものは、仮にどんなに自分だけで覚醒を目指したとしても、それ自体では全く救済の可能性を持たない。人間を救済する力を持っているのはイエスの十字架だけであり、それを信じることによって人は救われる。
 しかし、グノーシス主義においては、人間の霊そのものが、至高神のいるプレーローマから出たものであり、本来的に光(元来、プレーローマから来た光明ソフィア)が宿っているとされる。その知識に目覚めること、つまり、自己が本来的に、より高次の世界に属している存在であることを認識することによって、デーミウルゴスの創った堕落した世界に閉じ込められている人間の霊は、上界への帰還(霊の救済)が成し遂げられるとする。
 つまり、信仰によって、救済されるのではなく、知識による覚醒によって救済されるのがグノーシス主義だと言える。

「いずれにせよ、ヤハウェの啓示宗教である、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教にあっては、『神への帰依・従順』つまり、言葉を換えて云えば、神への『信仰(ピスティス Pistis)』が、救済の条件になっているとも云えます。それに対し、グノーシス主義における『救済の要件』は、プレーローマの『知り難い至高神(プロパテール=プロパトール,ビュトス)』への信仰(ピスティス)の度合いで決まるのではない、と云う点が異なります。
グノーシス主義は、まさに『グノーシス』の主義と云うその名が語る通り、『グノーシス(Gnoosis)=叡智・認識・知識』を人(の魂)が熟知しているか、真の神と偽の神(デーミウルゴス)の対立になる、この全世界の『反宇宙的二元論』構造を覚知し認識しているかと云うことが、救済の与件となると云っても過言ではありません。

 グノーシス主義のこの『救済観』は、仏教の救済或いは解脱に似ているとも云えます。少なくとも原始仏教においては、『正しい言動』を行い、『戒律(正しい言動とは何かを定めた規則とも云えます)』を遵守し、そして何よりも、自己が『無明』つまり『無知』であり、『世界の真理』を知っていないことを自覚し、世界の真理とは何かを覚知し認識し、無明より脱することで、『覚りの境位』 『救いの状態』に入れると教えます。
グノーシス主義の『救済論』は、或る意味で、この仏教の、『無明』よりの『真理の覚知』にも似ています。仏教とグノーシス主義の救済論が異なるのは、仏教は、『迷妄』を脱し、真実の現実の認識に到達することを目標としたのに対し、グノーシス主義の『覚知・認識』は、一見、荒唐無稽とも云える『創造神話』などを認識して受け入れ、宇宙と人間の運命についての『神話的構造』を自覚すると云う点でしょう。」

 この覚知、認識、覚りなどの言葉で表されるもの(私は「覚醒」という言葉をあてはめたい)は、至高者と三位一体の関係の中にあるソフィヤ(叡智)と深い関わりがある。荒井氏によれば、デーミウールゴスがソフィアを陵辱したことにより、人間が形成されたそうだが、それがために、人間には本来的にソフィアを認識する霊(光)が宿っているということになる。また、言い換えるならば、存在の流出により、光の破片が被造物である人間の中に閉じ込められた。

「ソピアーは、至高アイオーンに連なる者であったのですが、いわば、アダムとヘーヴァが楽園を追放されたように、自己の行為の責任であるとしても、『中間世界』に落下します。神話は更に、ソピアーが地上世界にまで落下したとも語っていますが、ソピアーは、多数の分身のごときものに分かれ、その一部が地上に落下して、惨めな存在となるのですが、同時に、中間世界に、ソピアーの分身が存在しており、更に、至高アイオーン世界、つまりプレーローマにも、ソピアーの分身が、残存していることが示唆されています。

このソピアーの『落下』と、その分身の運命は、実は、人間の地上への落下と、救済、プレーローマへの帰還の象徴神話になっています。何故なら、まさに、グノーシス神話は、ソピアーの救済とプレーローマへの帰還の物語を語るからです。
ソピアーを人間に置き換える時、人間の持つ『霊』は、まさにプレーローマに属するもので、他方、『肉』は地上に属するものでしょう。そして『心魂』は中間世界に属し、そこで、『無知』のまま、肉と共に滅びるか、『霊』の導きにより、『叡智=知識』を得て、永遠の光の世界へと救済されて行くかが決められると云うことになるでしょう。プレーローマより、その至高霊の部分である、『光の破片』 『霊の破片』が、ソピアーの過失事件により、中間世界、地上世界にばらまかれた時、『光明の霊の破片』は、人間の肉の衣を纏ったのです(或いは、『肉の牢獄』に閉じこめられた、とも幾つかの派では表現します)。

やがて、宇宙的運命において、ヤルダバオートの世界が完全にプレーローマより切り離される時、『光明の霊の破片』は、肉の衣を離れ、プレーローマへと上昇し、帰って行くでしょう。この時(或いは、それ以前にか)、肉の衣と霊の分離が起こる時、地上に残された肉の衣と共に、ソピアーの過失により生成されたと云える中間世界に属する『心魂』の運命が決まるとも云えるでしょう。それは、肉の衣と共に地上に残され、そこで滅び消えるか、または、霊と共に、プレーローマよりの救済者と共に、中間的世界より、至高世界=プレーローマに帰還するかのどちらかであると云うことになります。」

正統なクリスチャンから見れば、不思議なことに、グノーシスの教義は、徹頭徹尾、創造主たるヤーウェを貶めることによって、聖書の世界観を逆転させて成り立っているように見えるのである。聖書によれば唯一正しい神であるはずのヤーウェは、造物主デーミウルゴス(またはヤルダバオト)とされ、この世を悲惨な場所に変えてしまう悪意ある神であり、いずれ、至高神によって切り離される敗北の運命が定まっているとされる。この世の悲惨は全て造物主のために生じたのであり、造物主の権威失墜によって、ようやく、暗黒の世界の統治が終わるとされるのである。それだけでなく、「過失」により中間界、下界へ転落して惨めな存在となったソフィアが、上界へ帰還し、救済されるというのである。

また、造物主デーミウルゴスは、悪意ゆえに、人間の霊を救済する叡智(グノーシス)を人から隠し、救済の発見をさえぎっていると言う。この神話の筋書きは、アダムとエバに「善悪を知る」木の実を食べるよう、誘惑した蛇の台詞を思い出させる(「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」創世記3:5)。

「かくして、『霊魂の浄化』には何が必要であるのか、と云うことがグノーシス主義の救済論の根本条件になるでしょう。そしてそれは、上述の通り、『秘密の知識=グノーシス』であると云うのが、まさにグノーシス主義の答えであり、また、これが、グノーシス主義が、『グノーシス (叡智・認識・知識,Γνωσις)』の名で呼ばれる所以でしょう。しかし、人間は、『秘密の知識=叡智』について、『無知(アグノイア Agnoia)』な状態にあるのであり、その理由は、光明の世界の真実が、『光の破片=霊』を存在の裡に秘める人間たちに知られのを怖れた、或いは嫉妬した、造物主=デーミウルゴスが、この知識を人間から隠蔽した為であるとも、或いは、人間の霊が地上に落下した時、その『本来的故郷』についての記憶や知識を、人間自身が忘却してしまった為であるともされます。」

そして、グノーシス主義は、この玄妙な叡智である知識を認識することが、人間の霊の救済であるとする。だが、その知識に到達できる人間は限られており、特定の人間だけが、「救済者」として、その知識の偉大なる開示にあずかるのである。

「これらの『知識=グノーシス』は玄妙な叡智であり、それを正しく認識し覚知できる者は、優れた人間においても稀であり、それ故、至高世界プレーローマにあって、アイオーン・ソピアーの救済を計画している高次アイオーンたち、或いは榮光の『知られざる神=ビュトス』が、『真実の知識=叡智』の開示者を、『救済者 Sooteer』として、人間の存在する地上に派遣し、それによって、グノーシスの教師たち・その信徒たちに、『叡智』を開示し、救済への道を示したと云うのが、グノーシス主義の『グノーシス=叡智』の覚知・自覚・認識による救済論の構造です。」

キリスト教的グノーシス主義においては、イエス・キリストもまた、このデーミウルゴスを超える至高神によって「真実の知識」を開示された者であり、救済者であったことにされてしまう。特に、次の文章を注意してご覧になられたい。

「救済を可能とする『グノーシス=知識・叡智』の開示者は、同時に『救済者』でもあり、それはヘレニク・グノーシス主義、特にキリスト教的グノーシス主義では、イエズス・キリストがそれであるとされます。しかし、ヘレニク・グノーシス主義の起源問題において、救済者は、最初、女性的原理或いは霊であったとする見解があります。
ソピアーは、救済されるべき『人間の運命』の象徴原型でもあり、『救済される者』ですが、実は、ソピアー自身が、人類の救済者であるとも解釈できます(『救済する者』が、実は同時に『救済される者』であると云う逆説的事態が、グノーシス主義にあっては、救済論における原理として前提されています)。

 また、救済者は、一般に、プレーローマより派遣される高次アイオーンの超霊と考えるべきでしょう。しかし、無論、マニ教では、まさにマニ自身が『真実開示者』で、また、彼に先行する覚者である仏陀、ゾロアスター、イエズスなどの『人間』が救済者であるとされています。
しかし、マニにしても、『パラクレートス(取りなしの聖霊)』の啓示を受けて、『真実』を覚知し、真実の伝道を始めたのです。このことは、人間イエズスの場合にも同様で、イエズスは、ヨルダン川で、バプティスマのヨハネより洗礼を受けた時、天から訪れる、鳩の形の聖霊(ハギオス・パラクレートス)の言葉を聞き、自分が救済者であることを自覚したのです。」

 むろん、正統なクリスチャンから見れば、聖書における聖霊の働きをこのような形で理解するのは荒唐無稽である。イエスがヨルダン川で洗礼を受けた時に、初めて、聖霊によって自分が救済者であるとの自覚が与えられたという記述は聖書にない。しかしながら、このような形での、聖霊の働きの解釈、つまり、人間を真実に覚醒させ、人間をより高次の次元へと導き、本来的な自己の高みへと引き上げる役割を聖霊が持っているという解釈は、どこかで聞いたような話だと思わずにいられない。少なくとも、私は、それが教会成長論において見てきた、十字架なしの「聖霊による人間の新創造」ととてもよく似た話であると感じずにいられないのである。

 グノーシス主義の言う「聖霊」が人間に啓示する「知識」とは何なのか。天から過失によって堕落し、デーミウルゴスの敗北の後で、やがて天に帰還して自ら救済されようと願っているソフィアとは何者なのか。
 グノーシス主義の言う「知識」とは、まさにエデンの園でアダムが手に取った「知識の実」と出所が同じものなのではないのか?との想像を、どうしても私はせずにいられないのである。かなり先を急ぐならば、それはグノーシス主義者が言うような、「無明」からの脱却、「光明化」としての「覚醒」ではなく、光の天使に偽装した者からの誘惑を受け取って、人が神人化する(小さな神になる)ことではないのか?と言わずにいられなくなるのである。
 いずれにせよ、グノーシス主義における知識による覚醒が、十字架なしの救済であることだけは確かである。このことについて詳しい分析は、稿を改めて行うことにしよう。
 

<つづく>
 






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