2019年02月21日

●この記事は、ネット上にあった有力情報を転載・紹介するものです。

隠された本当の歴史3

ニュースによると、石原都知事が日韓併合について、「そもそも彼らの先祖が悪い」という事を言ったらしいけれど、それは大間違いで・・・高句麗・百済から侵略して来た奴らの子孫は「日本にいる」連中である。戦中に強制連行された人たちじゃなくて、高句麗・百済の時代の話ね。石原都知事みたいな顔と性格をした奴が高句麗・百済人なわけよ。
そんな簡単な事に気づかないのも、自己中心主義者の傲慢さのせいだね。

さて・・・前回は、百済仏教の渡来辺りから天智天皇、藤原不比等、桓武天皇の暴虐を経て、菅原道真の改革までを書いたわけだけど・・・今回は、神武東征までさかのぼってみたい。

日本書紀が捏造歴史書だという事はだいたい想像がつくと思うけど、古事記と比べたり、中国・朝鮮に残っている資料と比べて修正したりする事もできる。ただ、中国・朝鮮に残っていた資料を、戦中に没収したりもしてるらしいんだよね。ニッポン帝国軍が。
高句麗・百済から侵略して来た連中にしてみれば、日本先住のアイヌ民族などに知られたら困るわけだ。国粋主義とか朝鮮差別によって不満をそらしたり、政府に服従させたりできなくなるし。

こういう事情は中国にもあるようで、漢字の元となった甲骨文字などがシュメール文字の変形だという事を認めたがらないようだ。そもそも中国人はどんな混血民族かというと、先住民と、アルタイ系騎馬民族と、アレクサンダー大王の遠征軍やグレコ=バクトリア人との混血らしい。

7世紀初頭のギリシャのビザンティン学者テォフィラクッス・シモカッタは、『歴史』の中で「タウガス(中国)は東国では非常に有名で、元来トルコ民族の一植民地であったが、今や勢力といい人口といい、全世界に殆ど並ぶものなき国家を形成した。その首都はインドから1500哩である。(・・・)タウガスの地は大河(渭水)によって二分され、タウガスの都はアレクサンダーがバクトリア人とソグド人を捕虜とし、12万人の原地人を焼き殺してから建設した。(・・・)アレクサンダーは23哩離れた所に第2の都市を建設したと伝えられ、原地人はこれをクブダン(クムダンはシリア語で長安のこと)と呼んでいる。」 としている。また、林語堂は『我国土我国民』の中で「周と唐は東北の甘粛からおこった。トルコ人の類いである」としている。

こういう歴史的経過を知った上で、川口哲夫氏のカオロジィ(顔学という意味の造語)の本(リンクにHPもあるよ)を読んでみると、なるほど川口氏の分析が正しかった、という事が分かるんだよね。(残念ながら、川口氏が監修したものではないらしく、HPは本とはちょっと違った事を書いているけど。)中国人っていうと日本人はだいたい清朝のツングース民族を想像したりするんだけど、漢民族っていうのはつりあがった細目のツングース民族とは違って、二重まぶたか「すじ二重」で、川口氏によると「西洋人の血はひいてないはずなのに西洋人のような顔立ち」なんだって。ところが西洋人の血を引いているわけだ。

当たり前だと思うけど、中国や朝鮮から「日本人」なるものは入ってくる。南方系(アイヌや沖縄)でないものはほとんど朝鮮経由だと言ってよい。ごく少数はフェニキアのタルシシ船団で来てるみたいだけど。あまりに奇想天外に聞こえるかも知れないけど、そもそも教え込まれた歴史が真っ赤な嘘なわけよ。それは分かっているよね?

バリー・フェル教授を中心としたハーバード学派は、アメリカにオガム文字が残っているのを発見したというか、ただの線だと思われていたものをケルト民族のオガム文字だと識別した他、エジプト文字なども見つけてるんだけど、これもタルシシ船団が運んだもので、スペインから来たケルト人たちはフェニキアのバアル神を太陽神として崇拝していたらしい。多分、ケルト人が人身御供を始めたのは、フェニキア人の影響じゃないのかな?

そして・・・オガム文字は日本にもあるわけ。これもやっぱりタルシシ船団が運んだものだと思う。というのは、東表国(大分の国東半島辺り)の製鉄技法は、赤土を使ったもので、聖書にあるソロモン王の頃の製鉄技法と同じものだからだ。

それから・・・騎馬民族を通して、大陸から伝わったものにシュメール系文字がある。▽と△を合わせたようなのが五の元で、剣みたいなのが十の元、みたいな。そして、十と五の組み合わせが天草とかで見つかってるけど、十五が意味するのは金星女神。十には、○っていう書き方もあって、五○だと天地の子・風神エンリルを意味する。◎だと20で、日神ウツ、別名をバ・バル(輝く神)。そしてフェニキアのバアル神は、このバ・バルがなまったものらしい。

どうしてシュメール文字が大陸経由って言えるのかと言うと、もちろん大陸各地にも痕跡が残ってるからだよ。
シュメール文字の変形にバビロニアの楔形文字があるけど、シュメール文字と、バビロニア楔形文字が南シベリアの岩に刻まれてたり、その変形が山東省の陶片に刻まれてたりする。

それから、アッダ(父)・アン(天神アン)・ウム(母)・ク(地神キ)という言葉が訛って、原モンゴル語ではアッヂャン・ム・ツで同じ意味だったり、中国黒竜江(アムール川)省の地名にヂャアムスっていうのがあったり、韓国ではチャンスンになって、日本ではチャウスになったりしてる。チャンスンっていうのは、杭の先に男の顔を彫って「天将軍」とか何とか書いたり、女の顔を彫って「地女将軍」とか何とか書いたり、その夫婦一組の傍らに鳥形の杭があったりするものらしいんだけど、天父神、地母神、鳥(風神エンリル)という組み合わせはシュメールからずっと変化しながらも伝わってきてる同一文化らしいんだよね。

チャウスには、日本では茶臼って字を当ててるけど、もちろん茶を挽く臼なんかじゃありません。あくまで当て字さ。だいたい古墳がある所に茶臼とか茶臼山っていう地名があるんだよね。当然。

同じシュメール系文化でも、北方の騎馬民族ルートを通らずに、南から来るのもあるんだ。天神アンと地母神キに由来する地名が中国の安徽省だとか、日本の安芸、安岐など。御神名が速秋津彦、速秋津姫。そしてその御子神とされるシナつ彦こそが、風神エンリルを意味するもので、隠された主神らしい。駱、越、斉、魯といった国々に「倭人」がいたらしくて。

「倭人」は水田稲作民族だよね。もしくは稲作漁労民だっけ。何回かに分けて渡来してたと思うけど、始めは縄文時代に焼畑農耕を伝えて、弥生時代に水田稲作とか高床式倉庫だったっけな。古事記とかは、焼畑農業が前提になってるんだよ。阿蘇では最近まで焼畑をやってたし。

「倭人」系と思われるのが、天照大御神から始まり、天のオシホミミの命、天のホアカリの命、ホのニニギの命、ホスセリの命、ホヲリの命ホホデミの命と連なる「ホ(当て字は穂、火)」がつく系譜。また、大伴氏は代々といっていいくらい名前に「日」が入る。これが天つ神系貴族だね。
元々、トモないしタマは、官職の名前らしいんだけど。卑弥呼と書いて当時はヒミカと読んだ事もわかって来てるんだけど、ヒミカ(女王)とかヒミクク(男王)っていう官職もあったみたいだよ。それと、邪馬台はヤマトと読むって事も分かってきた。当時の中国の音(魏音っていうんだっけ?)の研究からね。

一方で、崇神天皇の系譜は全く違う。
ミマキイリヒコ五十ニエ天皇、イクメイリヒコ五十サチ天皇、ヒコ五十サチ命、五十日鶴ヒコ命、五十ニシキイリヒコ命というふうに、イリとか五十(イソ、オシ)がつく。

これは氏族が違うんだな。同じ時代に存在した別々の王朝の系譜を、縦につないでしまうという手法は、シュメールからずっと使われてきている。それで、2つの王朝をつなぐと過去が2倍になるみたいな事があって、「欠史八代(神武天皇と崇神天皇の間の、記述の少なく実在はしなかったと考えられる世代)」みたいなのが生まれてくるわけだ。これは、歴史を実際より古く見せて中国・朝鮮と張り合おうとしたのじゃなくて、別々の氏族の系譜をつないで、「侵略者が土着の王族の系譜に編入される」手法ってわけだ。

それでは、崇神王朝はどこから来たかというと、北方から騎馬民族ルートで来ていて、しばらく対馬辺りにいた。というのは、対馬辺りにそういう地名とか岩刻絵文字が残ってるんだ。日本書紀か古事記の仲哀天皇8年の記述にも、筑紫のイトの県主の祖・五十トデっていうのが出てくる。対馬の辺りの県主は、あいかわらず五十のつく名前だった・・・もしくは、神武東征の頃の話を、新羅出征の話にすり替えた感じかな。対馬辺りの岩刻絵文字は、牛頭の風神アネモス(アン・ネ・メスつまりアンの子。風神エンリル)を表してるらしいんだけど、牛頭は本来、天父神アンのシンボル。風神エンリルに牛頭をつけるのは、騎馬民族ルートを伝ってくるものなんだ。

ちなみに、地母神キのシンボルは蛇。

というわけで・・・百済仏教伝来より前から、騎馬民族の侵略は始まっていたわけだ。ここで絶対おさえておくべきポイントは、天つ神と騎馬民族は別系統だという事。「渡来人」と一緒くたにするから分からなくなる。新羅系と百済系の対立の構図は、この時点で原因がある。

それと、興味深いのは、元々、円墳と方墳は別々に分布しているという事。それが近畿に入ってはじめて前方後円墳という形でつながるんだ。二つの王朝が和合した可能性も考えないといけない。

それから・・・神武天皇も崇神天皇もハツクニシラススメラミコトっていう事も、気をつけないといけないね。それに、神武東征は、実際には一世代では終わってない事も遺跡とかを調べればわかるはずだけど。
複数の人物を1人の英雄として合成して神話にする事もよくあるわけだし、俺の結論を言えば、神武東征は、卑弥呼の弟の大日命、崇神天皇、神武天皇の3代に渡っている。崇神天皇が先。

何故かというと・・・卑弥呼のヤマト国は北九州の騎馬民族王朝と戦っていたけれど、結果として、騎馬民族の崇神天皇が東征する事になった。ただし近畿には既に高山王朝が来ていた(白山神社の分布は高山王朝の西征ルートを示す)ので、簡単には上陸できず、紀伊半島を迂回して伊勢から上陸した。畿内に入るにあたっては、高山の神スクナが神武天皇に位を授ける形になった。という順番で、その後、高句麗・百済と呼応する少数の騎馬民族と、多数派の天つ神のせめぎあいがある、っていう歴史だと思うんだよね。詳しくはまたね。





(00:00)

コメントする

名前
 
  絵文字