2019年01月

2019年01月30日


君たちはどう生きるか?第三次世界大戦



君たちはどう生きるか!これから起きる恐怖の予言




(23:36)

聖書の予言と予型 月刊久保有政 Season2 No.6
2019年1月号 ダイジェスト




(18:47)

2019年01月29日


君たちはどう生きるか?政府が隠す日本の未来




(23:50)

2019年01月28日

●この記事は、ネット上にあった有力情報を転載・紹介するものです。

2010年05月14日
邪馬台国を征服したアレクサンドロス=出雲の大王「神武天皇」の謎

「初代・神武天皇と第10代・崇神天皇は同一人物だった。
よって、その間の第2代~第9代の天皇は、やはり存在せず、みな神武天皇の投影にすぎない」という飛鳥説を否定する材料はない。
更に、多くの研究家の意見では、第11代「垂仁天皇」 、第12代「景行天皇」 、第13代「成務天皇」 、第14代「仲哀天皇」も架空だという。
飛鳥説では、この4人も「神武天皇=崇神天皇」の投影だという。
架空であろうと投影であろうと、初代~第14代までの14人の天皇は、全て同一人物だった可能性が高いということである。
もしそうだとすると、やはり「仲哀天皇」と「垂仁天皇」は同一人物の「スサノオ」だったことになる。

ここで再度、 「世界の龍退治神話」の主役、インドネシアの「アジサカ」とドイツの「ジークフリート」を思い出して頂きたい。
阿遅鋤高日子根(アジスキタカヒコネ)の「鋤」は、古代は「サカ」とも発音されていた。
故に、アジサカは「アジサカ・タカヒコネ」である。
また、サカはスキタイであり、鋤を「スキ」と読んでも、スキタイの「スキ」である。
しかも、阿遅鋤高日子根は「アレクサンドロス」の当て字だった。
アレクサンドロスは「スサの王」を名乗り、阿遅鋤高日子根は「スサノオ」であった。
つまり、阿遅鋤高日子根は、アレクサンドロスの継承者である「スサノオ」だったのだ。

一方、ドイツの「ジークフリート」は、邪馬国の「邪」、狗奴国の「狗」、夫余国の「夫余」に人を付けた「邪狗夫余人(ジャクフリト)」で、その正体は高句麗の王「垂仁天皇」だった。
ジークフリートの妻「クリムヒルト」も高麗国日霎人(クリマヒルト)と書くと、高句麗の姫という意味になり、「日霎」は天照大神の別称「大日霎貴」と重なる。

「卑弥呼政権が倒れたあとに出現した天皇は垂仁天皇で、彼は八俣大蛇の特徴をもつ卑弥呼政権を倒したスサノオなのだ」


加治木氏は次のようにも述べている。

『天日槍の「ヒホコ」は「火火子」と書け、神武天皇=垂仁天皇の彦火火出見尊の「火火」で、「彦」「火子」は日向(ヒコ)、出見(イヅミ)は出水、または「ヒ」は「日向」、「ホ」は百済(ホセイ)の首=「ホ」で、豊玉(ホツマ)の豊』

そして、「仲哀天皇」「天日槍」「天稚彦」「都怒我阿羅斯等」「蘇那易叱智」が、同一人物である事が証明された事から、「仲哀天皇=神武天皇=崇神天皇=垂仁天皇」が同一人物の「スサノオ」だった事が分かる。
問題は、神武天皇が「日向族」とされている事である。
アリオンの預言者の北川氏も、神武天皇が日向系という説を採用している。
その実、神武天皇は日向政権を征討した「出雲族のスサノオ」だったのだ。
神武天皇の祖先の「天照大神」が卑弥呼ではない事は、説明するまでもない。

何故、神武天皇が「日向族」とされたのか。
神武天皇の祖先が「天照大神」だからだが、その天照大神は「出雲族」でも「日向族」でもない。
その天照大神は「天孫降臨」を命じた人物なので、その正体はアショカ王かも知れない。
そして、神武天皇が「日向族」とされたのは、謎の渡来人「秦氏」が関係しているようである。
神武天皇は、日向政権の邪馬台国を征服した。
騎馬民族王朝説の江上氏は、崇神天皇が北九州に侵攻した辰王で、伽那との連合国家を樹立した大王だと考えた。


これらは、アリオンが説く古代史と一致する。

「出雲族の族長であったフツは、息子のスサノオとその第5子のトシ(後のニギハヤヒ)らを伴って、日向族の制覇に乗り出した。
出雲族の強大な勢いに恐れをなしたイザナギとイザナミは、娘のアマテラスをスサノオの妻として差し出すことによって衝突の回避を図り、二部族間の同盟を申し出た」

これが『記紀』に記される「スサノオとアマテラスの誓約」である。
ただ、この親子関係を見ると、フツが「崇神天皇」、スサノオが「垂仁天皇」だと言えるだろう。
或いは、スサノオを「神武天皇」とすると、フツが「ウガヤフキアエズ」ということが出来る。
また、スサノオを「仲哀天皇」に見立てると、フツが「ヤマトタケル」という事になる。
そして「神武天皇=スサノオ」は、狗奴国の男王「卑弥弓呼」でもあったのだ。

では次に、辰王の謎に迫ってみたい。





(22:07)
●この記事は、ネット上にあった有力情報を転載・紹介するものです。

2010年04月07日
邪馬台国と倭国連邦の謎

卑弥呼が金髪で碧眼だった可能性があるという説を紹介したが、『学研ムー(2008年3月号)』 に、FBI超能力捜査官ジョー・マクモニーグルによる「卑弥呼」の透視結果が載っていたので紹介しよう。
それによると、卑弥呼は南方系の特徴をもった顔立ちだが、皮膚の色はアイボリーで、目の色はスティールグレーだったという。
そして、ストレートの黒髪は腰まであったが、頭の上に高く巻き上げて黄金の「かんざし」で止められていた。
つまり、黒髪ではあったが、色白で、日本人には見られない瞳の色をしていた事は確かなようだ。

さて、「邪馬台国の女王」という卑弥呼の肩書きについて、加治木氏は 『黄金の女王・卑弥呼』 の中で、次のように指摘している。

――『魏志倭人伝』には、「その国はもと男王が治めていたが、それが七~八十年間続いたあと、国が乱れて戦いが何年も続いたので、一人の女子を共立して王にした。
それに名付けて卑弥呼という」と書いてある。
これで先ず確認しておく必要があるのは「卑弥呼」という名詞である。
それは彼女自身の名だったのだろうか?
彼女の名が最初から卑弥呼だったのなら、「一女子を」と書かずに「卑弥呼を」と書くのが漢文の文法である。
だからこの名は共立されてから「名付けられた」、とはっきりことわっているのである。
それは個人名ではなく、職業上の呼び名だったのだ。
この部分の記事で、次に分かることは彼女が「共立された」ということである。
これは何をいっているのか。
彼女がもと男の王様が治めていた「一つの国」の王に選ばれたのなら、「共立」などと書かれない。
「代わって」一女子が次の王になった、という書き方をする。
「代がかわった」と表現するのだ。
そうでなくて「共立」とわざわざ書いてあるのは、彼女は「倭国連邦全体の女王」として、「それらの国々の王たちによって、共立された」ということなのである。
だから彼女は、そのときはじめて女王になった。
自分の国ではそれ以前から皇后の地位にいたかどうか不明だ――


――『日本書紀』の神功皇后の話を読むと、このへんの事情がよく分かる。
皇后の夫・仲哀天皇は、クマソ(熊襲)と戦争して死ぬ。
そこで皇后が永く政務をとる。
これを『魏志倭人伝』の卑弥呼の記事と比べてみよう。
「其の国、本または男子を以て王となし」。
これは仲哀天皇でも同じことだ。男王の国だったのである。
ところが次の「住、七八十年」。
これを誤解すると、彼女の前の王が一人で七~八十年も国を治めていたと思い込んでしまう。
この「其の国」は「倭国であって、邪馬臺国ではない」ということがこれまで、いい加減にされてきた。
そしてボンヤリしてか、うっかりしてだが、「平気で」『邪馬台国の女王・卑弥呼』などといってきたのである。
だが、ここが非常に重大な注意点なのである。
この部分の文章は「倭国連邦」の事件を書いたものであって、邪馬臺国や邪馬壱国のことを書いたものではない。
「倭国乱れ…一女子を共立」したとはっきり書いてあるのである。
また「七八十年…」というのも「その連邦全体の皇帝または大統領は代々、七~八十年間は男ばかりだったが…」という意味なのだから、そう正解に訳す必要がある。
それでこそはじめて「一人の女性を、各共和国の大統領たちが連邦の女王として選出し、その『新しい称号として卑弥呼という名を』決定した」ということだと理解できるのである。
だから「卑弥呼」というのは「アメリカ合衆国・大統領」と全く同じ「連邦代表」を意味する『肩書き』である――


――卑弥呼が君臨していたのが邪馬臺(ダイ)国一ヵ国だけなら、邪馬臺国と女王国は等しいが、伊都国の説明のところに「女王に属す」と書いてある。
これは「別の国だが女王国の仲間だ」か、「女王国に従っている」という意味である。
これと、二十一ヵ国の国々の名を挙げた後に「此女王境界所尽(ここが女王国の境界だ)」とあるのをみると、明らかに邪馬臺国以外の国が女王の支配下にあり、邪馬臺国は一ヵ国だが、女王国は複数の国を総称した「連邦」を呼ぶ代名詞であることが分かる――

その事について、マクモニーグルは次のように透視している。

――あるとき、北方の部族の代表である10の部族の使いが、卑弥呼のもとを訪れた。
彼女はその部族の代表たちに、「もし、北方における最有力の3部族が、意見の相違を平和に解決できなければ、地上には暗闇が覆い被さり、多くの者が死ぬ」と予言した。
「魏志倭人伝」に出てくる、倭国大乱の時代である。
この予言を聞いた北方の10部族は、卑弥呼を連れ帰り、彼らのリーダーとして部族連合を統治させることにしたのだ――


マクモニーグルによれば、卑弥呼の出身部族は九州と本州南部、そして朝鮮半島南部まで領有する海の民で、朝鮮半島から進んだ稲作技術をもたらしたらしい。
そして、卑弥呼の先祖を8~9世代遡ると沖縄で、更に遡ると、南中国か東南アジア辺りに行き着くという。

具体的には、次のように示されている。
・日本の長門=西暦125年
・日本の福岡=西暦65年
・日本の沖縄=紀元前65年
・台湾の台北=紀元前205年
・中国のマカオ=紀元前265年
・ベトナムのハイフォン=紀元前325年
・ベトナムのハノイ=紀元前385年
・中国の昆明=紀元前475年
・中国での部族成立=紀元前805年

卑弥呼の部族は、確かに沖縄を出身地としているようだ。
だが、マクモニーグルの透視が事実であれば、アリオンのいう「紀元前3~2世紀にパミール高原から出発した日向族」とは異なることになる。
まず、「稲作」について、加治木氏は『日本人のルーツ』の中で、次のように述べている。

――水稲稲作がやってきたコースは、弥生人の正体が自然に教えてくれることになった。
これまでの水稲渡来コースは、中国江南から朝鮮南部そして北九州というのが、ほぼ一致した有力な説であった。
中間に朝鮮がはさまるのは、中国と陸続きであり、日本より中国に近いためで、水稲は次第に分布を広げてきて日本に至ったという先入観に支配された考え方である。
そしてその手がかりとして、江南人の血液型が日本人に近いこと、江南の米や文化が日本のものに近いことなどが挙げられてきた。
だがカレン人の歴史を見ると、逆に朝鮮から江南に行って、さらにビルマヘ入っている。
これは実は中国の正史にもちゃんと記録されている有名な史実なのである。
前漢を乗っ盗って「新」という国を立てた王莽(おうもう)は、高句麗を討ってその農民を江南へ強制移住させている。
農民は当然種子も技術ももっていく。
いま江南に朝鮮、日本と同じ米があり、同じ血液型があるのは当たり前である。
いまあるから動かぬ証拠だというのは、余りにも無思慮であると思う。
それよりも宝貝漁師たちは自給自足が必要だった事実の方が重要である。
彼らは米をもって来て、行く先々に植えたのである――


また、台湾・沖縄を中心に栄えていたのは「カリエン人」だったが、加治木氏はこう述べている。

――「貝人」は、今の宝貝のインドや英語の名である「カウリー」「コウリー」と同じ系統の発音で、「カウリー・高離人・カリエン・カレン・高麗」などと呼ばれてきた。
韓国・北朝をコーリアという語源である。
……ビルマのカレン人がこの一族であり、その語り部がタイ国に現存していると教えられ、それと会うために政治家の江田五月氏や毎日、朝日両新聞の特派記者らとタイの奥地まで調査にいった。
……その結果分かったことは、このカリエン人たちは、前期バビロンの崩壊とともに四方へ散った国民のうち、東へ逃げた難民集団の子孫で、南インド経由で沖縄から日本列島と朝鮮半島へ広がったということである。
……彼らが縄文時代から日本列島にいた人々で、その後に入ってきた倭人とは区別する必要がある。
しかしそれを前期倭人とみるならば、その勢力範囲は、日本から江南、そしてミャンマーまでの、広大な地域にまたがることになる――

恐らく、マクモニーグルは、カリエン人が卑弥呼の出身部族だと勘違いしたのだろう。
沖縄の女性が髪を巻いてカンザシで止めるのは、カリエン人の風習でもある。

更に、加治木氏は次のように説明してくれている。
「『魏志倭人伝』にある「入れ墨」風俗はカリエン人のものである。
それは私がタイ国その他、至るところで見てきたその人たちの特徴だから、間違いなくヒミコは彼らの女王だ」

しかし加治木氏は、「卑弥呼はカリエン人と共存共栄を図っていたものの、卑弥呼自身はカリエン人ではない」と結論付けている。


次に、マクモニーグルは、卑弥呼の部族が沖縄から福岡に上陸したと透視しており、「邪馬台国=北九州説」や「アリオンの北川説」と一致するが、加治木氏の「鹿児島県隼人町説」と異なる。
だが、これは単純に地理的な問題で、朝鮮半島から上陸した人々は福岡に上陸し、沖縄から上陸した人々が鹿児島に上陸したと考えられ、卑弥呼はその後者だった可能性が高い。
また、鹿児島神宮に伝わる『正八幡の縁起』では、鹿児島に流れ着いたオオヒルメ(卑弥呼)は、筑前(福岡県)の若椙山に移って、「香椎聖母大明神」と崇められたとされている。
やはり、オオヒルメの処女懐妊伝説は、「聖母マリア」がモデルになっているようだ。
尚、卑弥呼の部族が熊襲を併合したというよりは、カエリン人を併合して「熊襲」と呼ばれる部族になった、と考えるのが適切かも知れない。

さて、ここで大きな問題が控えている。
『魏志倭人伝』では卑弥呼は独身だったとされ、マクモニーグルの透視でも卑弥呼は独身だという。
しかし、アリオンによれば、日向族のアマテラス(卑弥呼)は出雲族のスサノオと婚姻したとされている。
事実、神功皇后(卑弥呼)には仲哀天皇という夫が存在した。
「仲哀天皇=スサノオ」なのだろうか。
しかし、天照大神には「スサノオ」という名の弟がいた。
その謎解きは、非常に重要なことのように思えて仕方がない。





(22:06)

2019年01月27日


0887 Video Diary ビデオ日誌 
勉強会での質問+ダビンチの絵の中の数字と
「受胎告知」の中の3本指についてbyはやし浩司


【はやし氏が長年の研究でバフォメットやルシファーの謎を明かす!?】

2862【01R新重訂】 Jesus is Son of Heylel=Lucifer=Enki
救世主イエスはヘイレル(=ルシファー)の息子だった説
+その証拠と証明by Hiroshi Hayash



【管理人の独り言】
ナスカ理論で秀逸な研究をされている、はやし浩司氏が長年にわたって
考察して来た西洋絵画(特に宗教絵画)の中で、あの有名なダヴィンチを
中心に様々な興味深い研究がYOUTUBE動画と公式サイトで発表して来た。

初見の方のために、この林氏の主な研究内容を少し紹介すると、
彼は世界中にある古代の遺跡や遺物、そして有名なレイライン等を丹念に
調べ上げて、それらの遺跡や遺物がこの地球上の壮大なスケールで
有機的に関連性を持っている事に着目し、これまで「ただの偶然」として
片付けられていた一般の学者たちのおかしな説に異論を唱えて指摘する。

そして、彼の場合はこの地球上に遥か太古の時代からUFOや宇宙人
たちの関与があった可能性を指摘しており、いわゆる爬虫類人説の
考察においても、その高度なレイラインの測量技術や、巨石文明での
その強大な加工技術は、明らかに人間業では無いとして、自説を展開。
更には、我が国日本においても『神々の住まう国』であるとして話題に。


【一般の学者からは当然叩かれてしまう説、あと30年は掛かる?】
今回紹介する動画では、林氏が長年、世間や宗教界が『悪魔』と信じて
やまない、いわゆる有名な『バフォメット』や『堕天使ルシファー』について
研究を進めて来た中で、「神を見た目で判断してはいけない」をモットーに、
柔軟な姿勢でこの謎解きにチャレンジして来たシリーズの最終結論。

実は、私自身も林氏の切り口とは別件で、ルシファーが単純に悪魔という
のは間違いであるという事を様々な情報を調べていて仮説を立ててました。
まだ調べている最中ではありますが、暫定的な結論はほぼ同じでした。


【はやし説の不足分を補うならば・・・】
ただ、私が調べた限りで少し補足的に林氏の説に付け足せば、
ダヴィンチは素性がはっきりしていない人物で有名で、これは私が色々と
調べたところでは、あの時代にもう1人、有名な人物でノストラダムスが
ちょうどダヴィンチの居た場所の付近におり、この2人が実は会っていた
という有用な説があり、しかも、ノストラダムスはイスラエル10支族の
末裔で、天文学者ノストラダムスは実は預言者だった可能性がある。

ちなみに日本でも一時期話題にになった『1999年7の月』の預言は、
以前の記事でも書いていますが、これは『天体現象グランドクロス』の
事であり、インドの預言書にある暗黒天体ラジャサンの出現を意味していた。
日本では五島氏の著書で、世間が見切り発車してしまい解釈を誤ったが、
五島氏自身は元々、『第7の月の前後』とちゃんと書いており、これは
後に分かった事ですが、暦の計算上のズレを修正すると正確になる。
この時期に起きた出来事は『アメリカによる対テロ戦争の幕開け』だった。
つまり、これまでの戦争のスタイルが激変し、テロリストの居る場所には
事前通告無しに軍が他国を攻撃できるという時代に突入して行く・・。

話は戻り、ダヴィンチが恐らく、ノストラダムスからユダヤ教のカバラ
(密教)を授かり、自身の素性を隠しながら、或いは別の人物が
フィクサーとなってダヴィンチを称して絵画に隠し絵の手法で、当時の
バチカン主導のローマンカトリックの闇の秘密を暗号として仕込んだわけだ。

当時でも、時の教皇権のすさまじい金権力の前には、いかなる反論も
許されない暗黒時代であったので、ダヴィンチは手紙を書く時でも、
配達員のスパイ行為に対処するため、鏡文字の手法で書簡を綴っていた。


【ダヴィンチはイスラエル民族のレビ族の可能性あり】
そして、有名なモナリザの絵には自身の自画像を重ねて描写していたり、
また、ダヴィンチが当時から所属していた秘密結社の薔薇十字団が
掲げていたバプテスマの聖ヨハネ信仰(マグダラのマリアとの間の子孫説)
との関連性も非常に信憑性を帯びているので、モナリザの女性は
聖母マリアの方では無くて、当時から伝説ともなっていたマグダラのマリア
が南フランスに逃げて来たという話との関係や、迫害を受けていたカタリ派の
関係などから見ても、モナリザのモデル(象徴)は明らかに聖ヨハネと
マグダラのマリアの二重描写であり、それはフリーメイソンのシンボルである
2本の柱(ボアズとヤキン)が、あのモナリザの絵の裁断された両端に元々
あったとされている2本の柱がこれに対応しているので、間違いないだろう。


【バチカン・イエズス会の支配層は世界をこう騙す】
世界を一斉風靡したあの『ダヴィンチコード』では、イエス・キリストの子孫が
実は生きながらえているという示唆を漂わせているが、これは明らかな
プロパガンダである事は、少し調べると分かるのですが、ここでは割愛する。

まあ、要するに世界を裏で牛耳っている教皇権が来たる終末の世に備え、
聖書の教えに反して、『イエス・キリストの子孫』なる人物を出現させる。
そのための布石打ちとして、ダヴィンチコードをイエズス会によって広告した。
西洋では『英雄の血統』という風習が非常に根強くあるので、影響力がある。


【エデンの園にいた知識の蛇は大天使ルシファーと解せる】
話が長くなってしまったが、林氏はこのダヴィンチが後世の人々に向けて
残した暗号絵画(隠し絵)の謎解きで、その最終結論としてまとめたのが
『ダヴィンチはキリストの描写を悪魔的に描いたのは、神自身が実は
神様であると同時に悪魔でもあり、人々は悪魔を恐れて忌み嫌うが、
それは人間の浅はかな偏見があって神の本当の姿を知らないのだ。』

つまり、一般の人やクリスチャンが思っているようなキリストは表であり、
その裏側にあるのが悪魔的な描写の『神の姿』であるというわけだ。


【はやし説は飽くまでも暗号を解読、信仰はまだ知らない立場】
私はこのいわゆる『神と悪魔は同一説(表裏一体説)』は、かなりのもので、
この情報それ自体が時代の30年は先を行っているレベルだと思う。
だから、普通の一般感覚でこの説を見れば、それは恐ろしいくらいに
異端極まりない説であり、下手をすると超危険思想にもなりかねない。

あと、林氏は基本的に聖書学(聖書研究)をしていないので注意が必要。
基本的に信仰において祈りを捧げるのは『御子イエス・キリスト』に
対してであり、間違ってもルシファーを拝む事はしてはならない。

林氏が扱っているルシファーというのは、聖書学的に言えばエデンの園に
居た時のイブを誘惑した『善と悪を知る知識の樹に居た蛇』である。
神によって追放された後の人間を支配する堕天使ルシファー(サタン)とは
異なる状態の霊なので、これを同じ存在として扱う事は出来ないのです。

つまり、元が大天使なのだから悪魔サタンは『良い奴』・・ではないのです。
エデンの園の蛇(知識の神)の役割を理解するのは良い事ですが、
その後のサタン(人間の不信仰を神に訴える者)としての彼の立場は、
飽くまでも不完全な人間に対する監督者とも言うべき存在なのです。
だから、信仰においてサタンを賛美する事は反キリストになるから禁忌。


【人々の畏怖する念が描いた闇と死の存在である悪魔】
ちょっと神学の要素やカバラの要素が入ったりするので大変ですが、
それで、私サイドが調べて来た限りでは、明けの明星は金星の象徴で、
異教徒の偶像崇拝はこの金星(最初は火星だった)を軍神や豊穣の女神、
すなわち、地母神(イナンナやイシュタルなどの女神)に関連していました。
元々は男神エンリル神なので、嵐の神や風の神、そして他の女神の
属性をバビロニアやアッシリア時代に融合させて信仰が強化されていた。
だから、途中から女神が元の男神になったりと、何度か繰り返しています。

要するに、アブラハムの神の選民たちは当時の旧約時代はヤハウェの
信仰でしたから、まだ神は霊体であって異教徒の偶像崇拝を厳しく戒める。
人によっては、興味深い説を出していて、このヤハウェが実はバアルでも
あるのではないか?というような指摘もあったりします。

しかし、異教の神であるバアルとヤハウェが同一である事はありません。
これもさっきの『元が同じなのだからイコール善神である』の論法です。
信仰において元が1つなのは、真理が1つだから当然の原理ですが、
その元々の神の民の信仰とは別途に異教の偶像崇拝は禁忌なので、
人々に教えと救いをもたらすヤハウェは後の御子であって、この御子
以外の神を拝む事は、致命的な罪を負う事になってしまいますので、
当時の言語でバアルが『主』を意味すると言っても、既に純正の言語
からは異教の言葉は変質していますから、異教に合わせるのは罪になる。

まだ霊体(聖霊)の状態なので、カバラ的に言えば『峻厳の柱』の神です。
だから、善悪の判断は非常に正確であり、間違える事はまず無い。
そして、よく言われる『ヤハウェの残虐性』の描写は実は合理的な判断。
あれは、あの当時の無法地帯を神の民が無事に預言成就して行くには、
あまりに犯罪者が多かった時代なので、その異教徒らの民族を神は
早い段階で滅ぼすように神の民たちに命令しましたが、あろうことか、
彼ら神の民たち(イスラエル民族)は、これを打ち漏らしてしまった。
で、ざっくり言うと、その打ち漏らした異教徒の子孫が現在の支配者層。
ハム族カナン人の血族(世間が言う闇のイルミナティ)に繋がるのです。


【聖書の神は『カイン』であるという暗号解読について】
はやし氏の暗号解読の中でも一番インパクトのある説がこれです。
はやし氏は、この解読を以って『キリストはカインだった!』と言うが、
これもまたちょっと・・・彼は聖書学をやっていないので非常に危険が伴う。

詳述すると長くなってしまうので、端的に私なりに補足をすれば、
アベルに対してのカインというこの構図(雛形)は、陰と陽の関係です。
だから、当然それは単純にアベルが善で、カインが悪では無いのです。

確かにカインは神への捧げ物の一件で、アベルを逆恨みして殺害した。
しかし、これは聖書学的には屠られる子羊(キリスト)の雛形であり、
カインは自分にある役割を自ずと成したと解釈する事が出来ます。
神が直接的に指導していた時代の出来事なので、洪水後とは異なる。

そして、カインの子孫であるハム族は後にバビロンの王となった
ニムロドとなって地上の支配者となりますが、この人物も一般には
なぜか悪者扱いになっているので印象がよろしくないが、それじゃあ、
この系譜は一体何なのかというと、これが元祖フリーメイソンです。

つまり、神の選民アブラハムたちは神の祝福で『宗教の祖』になり、
一方、罪を犯して呪われたハム族の子孫は、アブラハムのセムと、
白人の祖であるヤフェトに続く彼ら傘下のハムで黒人の祖になっている。

だから、世界で最初の支配者になったニムロドはハム族であり、
また同時にフリーメイソンの元祖でもあった。

しかし、その子孫であるハム族のうち、カナン人だけは突出して罪を犯す。
世間や陰謀論者たちが言っている悪魔崇拝者とは彼らカナン人のこと。
これをハム族全体がそうであるかのように勘違いしているのは危うい。
だから、ソロモン王とシバの女王(ハム族)との混血が異教徒との
交わりであるというような指摘も微妙なところである。
というのも確かに、付近にはカナン人たちの居住地があったためだ。

けっこう長くなってしまったので、暫定結論を言うと、カインはキリスト
ではなくて、彼は自分の呪われた子孫が最後に神によって滅ぼされる
光景を見届けるまで、不死の体になっている身なので、恐らく、
ダヴィンチが伝えようとしたのは、表向き神聖な装いをしている教会
(バチカン)が実は聖書が示唆している『獣の住む穢れた会堂』で
あることを暴露している隠し絵だという風に捉えるのが最も自然だと思う。

そして、これが多分重要な部分だと私は見ていますが、このカインの
系譜にあるハム族のフリーメイソンが、いわゆる『知識の指導者』だ。
もっと厳密に言えば、『石工の高度な技術と知識』を継承する部族。
だから、件のノアから盗み見たカバラの奥義を彼らが保有している。
それで、古代バビロニアにしても、古代エジプトにしても非常に高度
なのだろうと見れば、色々な辻褄が合う上に、密教ラインとも繋がる。
要するに、人間が神の真理を学ぶのに必要な科学知識を与える。

ただ、聖書学的にはノアより罰を受けているハム族なので、その
主導権は地上の支配権(王権)を与えられた白人のヤフェトの傘下、
あるいはその背後にフィクサーとして君臨し、現在のような白人の
ヤフェトの子孫であるアングロサクソン族が世界を支配している構図だ。

まとめると・・・カインは元祖殺人者で後のハム族に繋がる。
そして、ノアから不正取得したカバラ(神の奥義)を持つ。
これによって子孫のニムロデが世界初の塔を建てて地上の支配者に。
そのハム族の中で、呪いのカナン人が異教徒として犯罪集団となった。
他のハム族の人たちが古代エジプトなどの黒人文明を築いて行った。
しかし、罰を受けているので神の民(黄色人種)やヤフェト(白人)の
傘下に治まるかたちでしか発展が出来ない役割を持つ事になった。

なので、カインからは世の裏面をしっかり学ぶ事が大切なのであって、
それには神が元来、人間に与えた知識を活用して真理を探究する。
そして、この事が明瞭に悟れたならば、すべての人類にとって唯一の
救い主である御子イエス・キストへの理解と受け入れを表明して、
時の裁きまでに自身の神性をしっかりと磨いて成長させるという事です。




(21:23)

2019年01月26日

●この記事は、ネット上にあった有力情報を転載・紹介するものです。

2010年03月30日
失われた琉球王朝と高海原のアマ族の正体

今までの流れを見ると、出雲族は元々、タジキスタンのクダラを経由して満州や百斉に広がり、その一部は陸路を辿って日本に来たと思われるが、本隊はパミール高原を越えてインドシナ半島から太平洋諸島を渡海し、朝鮮島を経由して日本に渡来した部族ということになる。
そして族長は、スメラミコト(スサの王の血統)である。

出雲族は、インドや東南アジアの島々を経由する際に、渡海手段として南方海人族(倭人)と接触していたことは自然な流れである。
むしろ、出雲族と南方海人族は元々交流を持っていただけではなく、エドム族を祖先とする血を分けた兄弟民族である。
また、海路グループ(出雲族)も陸路グループ(日向族)も「アマ族」だが、アマは「海」だけではなく「天』、つまり「天孫族」を指している。
従って、海路ルートのアマ族は「海人族」と表記するのが適切で、天磐船は「海磐船」となる。

また、海人族が日本列島に渡来したルート(海のシルクロード)も、「高海原(タカアマハラ)」と呼ぶことができる。
そして「タカアマ」とは、南洋マリアナ諸島の「タカ族」と 東南アジア系海人族の「アマ族」の合成語だとする説もある。
尚、ノア一家もまた、大洪水の「高海原」を方舟で漂流し、アララト山系に降臨した天孫民族だったと言えるだろう。
では出雲族は、日本列島のどこに上陸したのだろうか。


北川氏によると、出雲族は韓国に上陸後、出雲地方に渡ってきたとし、『日本書紀』の記述とも一致する。
だが、それも微妙なところで、日向族と同じく、沖縄地方に上陸した可能性が高い。
まず重要なことは、紀元前3~2世紀の日本列島が、現在と同じ形・位置だったとは限らないという事である。

これについても様々なシミュレーションによる仮説があるが、私が最も信頼できると思う情報が、飛鳥昭雄氏と三神たける氏の共著『邪馬台国の謎と逆転日本列島』(学研)である。

アメリカ軍は世界中の海底の地質を完全に把握し、プレートテクトニクス理論とプリュームテクトニクス理論を導入し、且つ放射性年代測定を放棄し、高速プレートテクトニクス理論を展開する中で、日本列島の歴史を徹底的に調査しているという。

そして、アメリカの極秘プロジェクトを担う研究所が、飛鳥氏に提供した紀元前3世紀頃の日本列島のデータによると、朝鮮半島は中国大陸と陸続きではなく、朝鮮島の南方に西日本列島があった。


少し長くなるが、続きは原文を引用したい。

「西日本列島は台湾などの南西諸島とともに、福建省あたりから分離したことが見て取れる。
西日本列島で花開いた弥生文化は、中国の江南地方の文化と共通点が多いといわれるが、なんということはない。
両者は陸続きだったのだ。
これまで、弥生文化は海を隔てて江南から渡ってきたとか、朝鮮半島を経由してきたとかいわれていたが、西日本列島自体が、そもそも江南地方の一部だったのである。
さて、次は東日本列島である。
西日本列島の南にあるのは、地形からいって今のフィリピンである。
驚くことに、フィリピンのすぐ東の沖合いに東日本列島が浮かんでいる。
形状からして、青森県が南になっている。
……(中略)……
はるかオホーツクの北方で中国大陸から分離した東日本列島は、なんと千数百年の間に、一気に南下。
フィリピンあたりにまで移動していたのである。
縄文時代、日本列島は温暖な気候だったというが、なるほど、そういうことだったのだ。
世界的に温暖化が進んだわけではなく、東日本列島自体が南下して、熱帯地方にあったのである。
1996年、バヌアツ共和国のエファテ島で縄文土器の破片が発見され、それが青森県の三内丸山遺跡で作られたものであることが判明したが、その理由も、これなら納得できる。
実は、両者の距離は、かくも近かったのである。
はるばる危険な長い航海をしなくても、すぐに隣の島へ行けたのだ。
おそらく今後、フィリピンやジャワ島から続々と縄文土器が発見されることが予想される。
そして、最後は北海道だ。
東日本列島の東北沖に、北海道とおぼしき陸塊が浮かんでいる。
現在の北海道よりは、二周りは小さい。
地理的に見て、東日本列島と北海道は、ともに南方の島である。
ここに住んでいた縄文人、とくにアイヌ民族は南方系の性質を持っているといわれているが、これはまさしく理にかなっている」


西日本列島が江南地方の一部だったとすれば、日向族が江南地方から陸路で渡来したのも辻褄が合う。
中国の古文書には、「高天」や「皇天の原」という聖地の名称が登場するが、これが中国大陸における「高天原」だったと考えられる。
ともすれば、それはパミール高原を指していた可能性もある。
中央アジアの真ん中に位置する世界の屋根……パミール高原こそ、高天原と呼ぶに相応しい場所である。

一方、アイヌ人が南方系の性質を持っているのも、東日本列島と北海道が南の島だったことで謎は氷解する。
彼らは、紀元前1000年頃から日本列島に渡来していたドラヴィダ人(シュメール系インド人)や南方系海人族で、中にはエドム人やフェニキア人、ネイティブ・アメリカンと血を分ける部族もいた。

当時、南方にあった東北地方に、縄文文化の痕跡や産鉄神信仰の名残りがあるのはその為である。
日向族は西日本列島の日向地方、出雲族は東日本列島の東北地方に定着したことは、ほぼ間違いないだろう。

問題は「熊毛」である。
「熊毛=クマギヌ=コーオマゲン」であれば、沖縄を含む熊毛地方が日本で最初の高天原という見方ができる。
アメリカの極秘データでは、朝鮮島の南方に中国江南地方と繋がる西日本列島があった。
西日本列島は台湾などの南西諸島とともに、福建省あたりから分離したことが見て取れる。
もしかすると、種子島や屋久島、沖縄諸島も、西日本列島と陸続き、または近隣だった可能性もある。

一方、東日本列島は青森県を南として南下しており、フィリピンの東に位置していた。
東日本列島が南の島だったことから考えて、東日本列島も沖縄と密接に繋がっていたはずである。
当時の沖縄が、青森県とフィリピンの中間に位置していた根拠は、沖縄人とフィリピン人の遺伝子の近さにある。
パプア語と日本語の類似性も指摘されているが、これも海人族によってもたらされたものだと思えば説明がつく。


また、地質学的には、沖縄諸島は奄美大島、八重山諸島、台湾、中国大陸と弧を描くように繋がっていたと考えられ、これを「琉球古陸」と呼ぶ。
そこにはかつて、琉球王朝が栄えていたが、地殻変動によって、奄美大島、沖縄本島、宮古島と八重山諸島を含む3つの島に分断し、度重なる地殻変動で現在の諸島になったという。
沖縄本島、与那国島、慶良間島周辺の海底で、巨石建造物が多数発見されているのは、琉球王朝の遺跡なのだ。

この地殻変動があったのは約1万2000年前とされ、ムー文明の遺跡だと考える学者が多いが、年代測定法に根本的な問題があるとしたら、正確な年代は不明である。
オコツトによれば、約6500年前の次元転換によって、ムー文明とアトランティス文明が滅亡したという。
それを軸に考えると、6500年前の次元転換とは「ノアの大洪水」を指し、それ以前の地球にはパンゲア大陸と呼ばれる1つの陸塊だけが存在していた。

とすると、「ムー」や「アトランティス」というのは大陸の名前ではなく、パンゲア大陸時代に存在した2つの文明圏を意味すると考えられる。
それはちょうど、現在の「東洋文明」と「西洋文明」のようなもので、ムー文明が東洋文明、アトランティス文明が西洋文明に対応する。
では、琉球王朝の海底遺跡は、6500年前に海底に沈んだムー文明の遺産なのだろうか。
いや、琉球王朝が栄えていたのはもっと後世で、恐らく南方系海人族の産物である。

縄文文化とされる与那国町のトゥグル浜遺跡でも、南方系の石器が発見されている。
インドネシア、ポリネシア、ミクロネシアなどから、黒潮に乗って琉球古陸に上陸した海人族が、与那国島沖に琉球王朝の神殿を建設したのである。
それは早ければ紀元前3000年頃から始まり、もしかすると、紀元前200年近くまで存在していた可能性もある。
そして、熊毛地方や青森県、北海道にも定住した。


少なくとも、沖縄地方は今でもその名残りを受け継ぎ、東北地方も大きな影響を受けている。
結論、出雲族は沖縄地方から隣接する東北地方に進出した。
それ故、沖縄人とアイヌ人は、出雲族系の末裔といえるだろう。

『秀真伝』でニギハヤヒ(出雲族)が、仙台地方に「日高見高天原王朝」を築いたというのは、あながち荒唐無稽ではない。
そして、鹿島経由(海路)で難波に移動したとされているが、これは紀元前1000年頃に、エブス人が堺市の南港辺りに上陸したコースとほぼ同じである。

さて、アリオンによれば、日向族は日本列島に到着し、原住民を併合していった。
その原住民とは、まさしく「海人族=倭人」である。
ここで、新たなミステリーが生まれることになる。
倭人とは、紀元前1000年頃から日本列島に渡来していたエドム族を含む、いわば「先住出雲族」である。

信じられないかも知れないが、先着の日向族は、先住民である「倭人=海人族=先住出雲族」を併合していたことになる。
が、それはそれで良しとしよう。
その後、日向族は、日向地方へ移動して強大な国家を築き上げたという。
日向の強大な国家……アマテラス……これは邪馬台国の卑弥呼ではないのか。
ここで少し、卑弥呼の謎に迫ってみよう。





(22:40)
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2010年03月28日
失われたヒッタイト人とカチカチ山の謎

ヒッタイト帝国滅亡後、ヒッタイト人は東南アナトリアに移動して新ヒッタイトを築き、紀元前800頃まで活動したが、その後、消息を絶っている。
改めて確認しておくが、ヒッタイト人はハッティの文化を受け継いで、アーリア系言語を使っていたらしいことが分かっている。
そして、トルコは黒海に面し、彼らは優れた製鉄技術と騎馬戦法を持つ民族だった。
そこで気になるのが「スキタイ人」である。

スキタイ人は、新ヒッタイトが消えた紀元前8~3世紀にかけて、世界最古の遊牧騎馬民族国家を築き、西シベリアからカスピ海、黒海地方にまで居住し、黄金製の工芸品を数多く残している。
言語は不明だが、アーリア系言語だと考えられている。
つまり、ヒッタイト人がスキタイ人になり、更にタタールの遊牧騎馬民族になったとしか考えられないのだが……この説を唱える学者がいないのが不思議である。

現在のタタール人は、ロシアのタタールスタン共和国に住むタタール人、黒海の北側に位置するウクライナ領のクリミア自治共和国に住むクリミア・タタール人、中国領に住むタタール人を指すが、タタールの名称は元々、モンゴル高原に住んでいた遊牧民の総称(タタル)だとされており、北アジアから東ヨーロッパにかけての広域で活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系の様々な遊牧民が、タタール人と称されてきた。

恐らく、ヒッタイト帝国滅亡後、ヒッタイト人の一派がスキタイ人となり、東ヨーロッパから北アジアに進出し、先住民と混血を重ねていったのだろう。
更に、タタール人の源泉がヒッタイト人であるならば、日本列島にも渡来した可能性は十分ある。
何故なら、国常立尊がトルコのエルズルムから日本列島に移動したことを、王仁三郎が伝えているからである。


オックスフォード大学の考古学・セイヌ博士は、「日本人の中に確かにヒッタイト人の血が入っている」と断言している。
また、日本書紀に登場する「天忍穂耳命(アメノオシホミミ)」は、古事記では「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命」と表記されているが、「勝勝(カチカチ)」はヒッタイトを意味するという説もある。
更に、秋田県の大湯ストーンサークルで出土した土器が、ヒッタイトで発掘された土器と酷似しており、ヒッタイト人が古代日本に渡来したことを証明していると言っても過言ではない。

出雲安来地方の島根県の製鉄工場では、タタラ製鉄の高い技術を受け継いで特殊な鋼を生産しているが、タタラ製鉄は朝鮮半島を経て伝来したものだと言われており、タタラの語源はタタル(タタール)である可能性が非常に高い。

出雲といえば、スサノオの「ヤマタノオロチ伝説」の地である。
ヒッタイト人は「牡牛族」であり、スサノオは「牛頭天王」と呼ばれている。
しかも、島根はスサノオが行った「根の国」に通じ、更には「生命の樹」の根に当たる「死の樹」に堕ちたルシファーにも符号する。


さて、カチカチといえば「カチカチ山」を思い出すが、ストーリーをザッと見てみよう。

――お爺さんが悪さをする狸を捕まえて、狸汁を作るようにお婆さんに言い残して出掛け、夕方帰宅して狸汁を食べると、実はお婆さんは狸に殺されていて、お爺さんが食べたのはババア汁だった。
そして、お爺さんの話を聞いた裏山の白兎が、狸の隠れ家の前で鎌で芝刈りをしながら栗を食べ始めると、穴の中から狸が出てきて栗を分けてくれるよう頼み、兎は向こうの山まで芝を背負って行くという交換条件を出した。
兎は狸の後ろで火打ち石を出し、「カチカチ」と火を切り始めると、変に思った狸が「カチカチ鳴るのは何だろう」と質問した。
「この山はカチカチ山だからさ」と答えると狸は納得し、また歩き出した。
やがて、兎の着けた火が狸が背負った芝に移って燃もえ出すと、狸は 「ボウボウいうのは何だろう」と質問した。
「向こうの山はボウボウ山だからさ」と兎が答えると狸は納得したが、既に火は背中に燃え拡がり、狸は燃える芝を振り落として穴の中に逃げ込んだ。
兎はわざと大声で、「火事だ!火事だ!」と言いながら帰っていった。
翌日、兎は味噌の中に唐辛子を擦り込んで膏薬を作り、大火傷をした狸のお見舞いに行って塗って来た。
それから数日後、兎は狸を海に連れ出して、兎は木の舟を造り、狸は泥で舟を造って沖に出て、泥舟は溶けて狸は溺れ死んだ――


火打ち石で「カチカチ」と火を切るというのは、製鉄を象徴しているのではないだろうか。
「火事」は、音も字義も「鍛冶」に通じる。
更に、木の舟を造って航海技術を持っていた。
カチカチ山の白兎の正体は、古代日本列島に製鉄技術をもたらして山人となった「アマ族」ではないだろうか。
ここで注意すべきは、兎は「製鉄技術を持っていたアマ族」で、陸路ルートで渡来したヒッタイト人(牡牛族)だということである。

また、白兎といえば「稲葉の白兎」の神話もある。
淤岐島の白兎が渡海する為に、ワニを利用して毛皮を剥がされるのだが、白兎が牡牛族だとすると、ワニは舟を示唆し、龍蛇族系のアマ族であることを暗に示している。
また、白兎は大国主命の処方によって怪我を治癒させたことから、大国主命も牡牛族だった可能性がある。

この神話の舞台は鳥取県だが、やがて島根県(出雲地方)に移っていく。
出雲は「製鉄民=牡牛族=鬼」所縁の地だが、彼らは最終的に日本列島の鬼門(東北地方)に追いやられていった。
牡牛族は隠れたことから「隠(鬼)」となったが、大湯ストーンサークルのある秋田県ではナマハゲが有名である。
これはまさしく鬼であり、「生剥げ」の名称は、白兎が毛皮を剥がされて赤くなったことに因んでいるのかも知れない。

秋田県の上の青森県では、古来より大国主信仰が盛んだが、鉄を産出する山に「大国主命」が祀られている。
また、大国主命が信仰していた「磐座信仰」があるが、これは黒い鉄鉱石であることから、「大国主命=大黒天」と同一視されており、そのルーツはヒンドゥー教の破壊神「シヴァ」である。
いずれにしても、スサの王が率いるヒッタイト人が、朝鮮半島から渡来したことは間違いないと思われる。


ところがアリオンによると、紀元前3~2世紀に海路ルートで上陸したアマ族が「出雲族」だという。
しかも、その出発地点はパミール高原である。
だとすれば、前述のシュメール系アマ族が「出雲族」ということになるが、出雲族が渡来する以前からアマ族は日本列島に渡来していた。
それに、出雲族は「牡牛族」で、それより遥か以前から渡来していたアマ族は「龍蛇族」だと言える。

以上の仮説を踏まえた上で、もう1度振り出しに戻って、よく考えて頂きたい。
ヒッタイト帝国が、王位を巡る内紛が原因で国家の崩壊を招いたのであれば、勢力の分裂があったはずである。
つまり、東南アナトリアに移動して新ヒッタイトを築いたグループの他に、もう1つのグループがあったと考えるのが自然である。
それが陸路ルートで日本列島に上陸したのだろうか。
大黒天のルーツがシヴァであるなら、インドと無関係ではない。
もしかすると、古代シュメール人が日本列島に入ってきた同じルートで、ヒッタイト人が渡来したのではないだろうか。





(22:39)
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2010年04月19日
死国の女王・オオゲツヒメ殺神事件の真相と禁断の関係

『古事記』の中のイザナギとイザナミの国産みで、2番目に創造された伊豫之二名島(四国)の中の阿波国(徳島県)として、大宜都比売(オオゲツヒメ)が誕生した。
阿波国は元来「粟国」と書き、五穀の神である「オオゲツヒメ」が祀られていた事が由来とされている。

高天原を追放された「スサノオ」は「オオゲツヒメ」に食物を求め、 「オオゲツヒメ」は「スサノオ」に次々と食事をもてなした。
それを不審に思った「スサノオ」が様子を覗くと、「オオゲツヒメ」は鼻や口、尻から食材を吐き出して調理していた。
腹を立てた「スサノオ」が「オオゲツヒメ」を斬り殺すと、頭から蚕、目から稲、耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生まれ、 「カミムスビ」が取って、五穀と養蚕の始まりとしたと伝えられている。

『日本書紀』では同様の話が、「ツキヨミ」が「ウケモチ(保食神)」を斬り殺す話として登場し、頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれ、「アマテラス」がこれらを取って広めたとされている。
やはり、「スサノオ」と「ツキヨミ」は同一人物だったようだ。
では、「カミムスビ」と「アマテラス」も同一人物だったのだろうか。
いや、「アマテラス」は「スサノオ」の乱暴によって岩戸に隠れた(崩御した)。

「ヤマタノオロチ」を斬り殺したのも「スサノオ」で、「アマテラス」も「ヤマタノオロチ」も「卑弥呼」だったことを考えると、イザナギ・イザナミの間に生まれた「オオゲツヒメ=ウケモチ」の正体も「卑弥呼」だった確率は高い。
そして、「ヤマタノオロチ」から「草薙剣」が出てきた事と、「オオゲツヒメ」から五穀や蚕が出てきた事も似ている。
「オオゲツヒメ」と「アマテラス」が同一人物であれば、それを取ったアマテラス(カミムスビ)は「2代目・アマテラス」という事になる。


「卑弥呼」と「徳島県」の関係は不明だが、映画でもあったように、四国は「死国」に通じ、「オオゲツヒメ」が切り殺された話や、卑弥呼の鬼道が崇拝する「死の神・シヴァ」に由来するのかも知れない。
『古事記』によるとスサノオは、父・イザナギより「海原を治めよ」との命を受けたが、それを拒否し、母・イザナミの居る「根の国」に行くと言い始め、イザナギは怒って近江の多賀に引き籠もってしまった。

「イザナギ」「イザナミ」は人名ではなく、肩書きだったことを思い出して頂きたい。
であれば、イザナギ・イザナミの娘のアマテラス(卑弥呼)も、「イザナミ」と呼ばれることがあったに違いない。
そして一説では、卑弥呼(イザナミ)の息子も「スサノオ」と呼ばれる人物である。
「卑弥呼=イザナミ=オオゲツヒメ」という等式で考えると、卑弥呼(イザナミ)の息子のスサノオが向かった 「根の国=死者の国=死国」というのは、オオゲツヒメ(卑弥呼)が死んだ「四国」を指しているのかも知れない。
但し、同じ名の複数の人物の伝説が重なり合っている可能性が高いので、卑弥呼が四国で死んだと断定するのは早計である。

話を戻すが、「オオゲツヒメ神話」と似た神話はインドネシア等の南方系にも広く伝わっている。
また、卑弥呼が魏の朝廷に絹を献上したことが『魏志倭人伝』に記されている。

『オオゲツヒメ=卑弥呼』


この推理は的外れではないようだ。
オオゲツヒメは「大気津比売」という当て字もあるが、加治木氏は『黄金の女王・卑弥呼』の中で次のように述べている。

――ヒミコがした仕事は『古事記』の「大気津比売神」をスサノオが殺したら、その頭に蚕、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰に麦、尻に大豆が生じた、という話で、その神の名が沖縄語では「オオ=ウ、キ=チ、津=の」で「ウチの姫神」すなわち天照大神=老ヒミコのことだと分かるので、彼女が農産物と織物工業の管理者でもあったことが分かる――

オオゲツヒメはスサノオに殺されたが、後に「大年神」の系譜の「ハヤマト」の妻として八神を生んだという記述がある。
ここに登場する「オオゲツヒメ」は、「2代目・アマテラス」と考えて良いだろう。
次にスサノオは、ヤマタノオロチの生贄として捧げられるはずだった「櫛名田比売(クシナダヒメ)」を助けている。
注目したいのは、この時「スサノオ」は、殺戮神から救済神に変化している事である。

また、注意したいのは、卑弥呼は神話の中で「アマテラス」「オオゲツヒメ」「ヤマタノオロチ」という名前で、同じスサノオに3回も殺されているという事である。
常識的に、「アマテラス」「オオゲツヒメ」「ヤマタノオロチ」は全く別物である。
だとすれば、逆に、同じ「スサノオ」であるはずの人物が、実は2人、或いは3人の「スサノオ」だったかも知れない。


加治木説に従えば、ヤマタノオロチ(卑弥呼政権)を倒したスサノオのは「垂仁天皇」である。
であれば、アマテラスを岩戸に隠れさせた「スサノオ」も、オオゲツヒメを殺した「スサノオ」も「垂仁天皇」だった可能性が高い。
少なくとも、ヤマタノオロチを倒したのは「垂仁天皇」という事になる。
ならば、クシイナダヒメをヤマタノオロチから救って娶ったスサノオも、「垂仁天皇」であるはずだ。

しかし、アリオンの預言者である北川氏が採用している家系図では、日向族のアマテラス(卑弥呼)と婚姻したスサノオ(仲哀天皇)は、出雲族系のクシイナダヒメとも結婚しているのだ。
これが事実であれば、「仲哀天皇」と「垂仁天皇」は同一人物ということになる。
アジシキタカネヒコは卑弥呼の兄弟とされている人物だが、その家系図では、アジシキタカネヒコ(垂仁天皇)は、スサノオと卑弥呼の子である多紀理姫(三穂津姫・木花咲耶姫)と、大国主(オオクニヌシ)の間に出来た子となっている。

そうすると、『日本書紀』では「大国主」はスサノオとクシナダヒメの息子とされているので、 「大国主」と「多紀理姫」は異母兄妹(又は姉弟)同士の結婚だった事になるが、その真相は不明である。
1つ言える事は、 「仲哀天皇」は神功皇后(卑弥呼)より先に他界し、後に卑弥呼政権を倒して王となったのが「垂仁天皇=アジシキタカネヒコ」であるという記録が最も信憑性が高いと思われるのだが、果たして……




(22:38)
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山田の大蛇族とドラゴンバスター

龍退治伝説が、古代オリエントにルーツがあったことを述べてきた。
だが、神話(神界の出来事)は時を変え場所を変え、人間界に移写される。
従って、「スサノオのヤマタノオロチ退治」のような出来事は、この日本においても様々なバリエーションで繰り返し起きていることになる。
日本神話では、高天原を追放されたスサノオは、出雲国の肥河(斐伊川)の上流に降臨した。
すると、老夫婦が泣いていたので訊ねると、毎年オロチがやって来て娘を食べてしまうという。

老夫婦には8人の娘がいたが、今年もオロチがやって来る時期が近づき、最後の末娘であるクシナダヒメ(櫛名田比売・奇稲田姫)が食べられる番だというのだ。
ヤマタノオロチは8つの頭と8本の尾を持ち、背中には苔や木が生え、腹は血でただれ、8つの峰と8つの谷に跨がるほど巨大だった。
スサノオは、クシナダヒメを嫁に貰うことを条件にヤマタノオロチを退治した。
これは、出雲国・島根県と鳥取県境にある船通山系から流れ出る、日野川、斐伊川、飯梨川、江の川、伯太川、及びその支流をヤマタノオロチに喩えて「オロチ河川群」と呼ばれている。


一説によると、オロチの腹が血で爛れているのは、河川が砂鉄で濁った状態を表しており、製鉄のたたら吹きに必要な木炭を大量に生産する為に、樹木が伐採され尽くした為に起きた洪水を象徴しているともされる。
更に、斐伊川には蛇の鱗を彷彿させる「鱗状砂洲」と呼ばれる砂洲があり、これがヤマタノオロチのイメージを創り上げたという説もある。

そして、オロチが毎年娘を拐うのは河川の氾濫の象徴で、河岸工事(オロチ退治)によって稲田(クシナダヒメ)を守ったことを表現していると考えられている。
実際にこのような出来事があり、これがオリエントの龍退治神話と結び付けられたというのは、非常に納得できる話である。

また、老夫婦に8人の娘がいたが、「八」は出雲族の象徴である。
そして、老夫婦が産鉄地に住んでいたことから、8はハッティ(ヒッタイト)を意味していることは間違いないだろう。
更に、スサノオも「八」で象徴される出雲族の族長であり、ヤマタノオロチも「八」と「産鉄」を象徴している。

これは一体どういう事なのか。
スサノオが十拳剣でオロチの尾を斬ると剣の刃が欠け、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が出てきた。
ここから推測すると、十拳剣は青銅製で、天叢雲剣は製鉄文化を象徴していると同時に、ヤマタノオロチが「出雲」を象徴している。
そして、スサノオがこの大刀をアマテラスに献上したところを見ると、出雲族と日向族の融合を考察することができる。
別の解釈では、当時の出雲国は越国(北陸地方)の「越の八口」と交戦状態にあり、これがヤマタノオロチ退治の神話になったのではないかという説もある。


『竹内文書』によると、富山県の山田川上流の「山田の大蛇賊」を、スサノオが成敗したと伝えている。
「山田の大蛇賊」とは如何にも作ったような名前だが、これを見逃すことは出来ない。
加治木義博氏によれば、鹿児島県の「内山田」の語源が邪馬台国(邪馬臺国)だという。

『これの発音は「ウチヤマダ」だが、これは次のような当て字と同じ地名だ。「宇治山田」。
この「治」は「自治省」や「治世」でお分かりのとおり「チ」という発音もあるからである。
この「ウジヤマダ」に沖縄~大隅語の特徴である三母音語で当て字にすると次のようになる。
「ウ=大」「ジヤ=邪」「マ=馬」「ダ=臺」。
以前は日本も国名に「大」の字をつけて「大日本帝国」といったし、お隣の韓国も正式名称は「大韓民国」であることはよくご存じのとおりだ。
それを邪馬臺国もやっていたのである』

つまり、ヤマタノオロチは「邪馬台国の大蛇」であり、「山田の大蛇族」というのも決して荒唐無稽な話ではない。
日本の歴史の中で、「卑弥呼」という人物は、どうやら非常に重要な位置付けにあるようである。
では、邪馬台国はどこにあったのか、卑弥呼とは何者だったのか、鬼道とは何なのか。
改めて、別の角度から検証を進めていきたい。




(22:37)